飛ぶ鳥の献立

珈琲と酒と本とぼんやりした何かでできている

波長と信号

やるべきことが急に増え出してじっくりブログを書く余裕がなくなってしまいました。

そんな中でもここにお運びくださる方がいらっしゃるらしいという事実がありがたくてもったいなくて、何か少しでも書けたらなどと思います。

しばらくは今まで以上に短文乱文散文が続くかもしれませんが、よろしくお付き合いくださいますと幸いです。

 

この季節の茜色はどうしてこれほどまでに心を切なくするのだろうなどと思ったり。

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土日連日出勤の朝、近所のお猫様が情け深く癒しを与えてくださったり。

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クライアントのアポの途中であまりの暑さに根負けしたり。

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夜の散歩を楽しんだりしています。

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先だっての奈良旅行以来、やるべきことが明確になったということもあって最近は交友範囲が非常に限定的になり、かつての自分に戻ったように感じている(そもそも診断士試験に合格してからの交友範囲の広がり方が異常だったのだが)。

 

交友の広狭に限らず、個々の人生におけるそれぞれの時期によって人の持つ波長は常に揺らいでいくものだと思うのだけれど、その揺らぎの中でも最も馴染み深くて安心できる周波数というのが誰にも故郷のようにあって、時々はそこに帰省する必要があるのだなと思う。

 

であるからこそ、誰かとある時期に波長がたまたま重なって親しく交わることも、それがいずれ揺らいで縁遠くなることも、それぞれがそれぞれの領分を全うしていることのまぎれもない証左であって、私はそれを嬉しく思う。

 

たとえ一時でも何かを深く共有しあえた関係ならば、その事実は互いの波長がまたいつかどこかで重なった時に送り合う信号みたいなものになることを私は知っているから、たとえどれほど縁遠くなろうとも、寂しさを感じることはない。

同時期に近い波長を持つということは一つの幸福すぎる偶然であるから、もしかしたらそれは互いの人生において一度きりのものかもしれないけれど、たとえ使われることがなくてもその人と私だけの信号があることは、私にとってまごう方無き宝の一つなのである。

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あなたと私のそれぞれの領分でそれぞれに生きる歓びの多からん事を。