飛ぶ鳥の献立

珈琲と酒と本とぼんやりした何かでできている

汝の対象を定めよ

9月から関東に転勤が決まって、お盆休みは引越しの準備とDQ11で終わってしまった。

結論としてはDQ11最高ということです。

 

そんな中でも少しは外に出ようと東京に上る用事のついでに、友人と国立新美術館までジャコメッティ展を観てきた。

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これは撮影OKの作品。

 

彫刻作品ではどうしてもあの独特の細長い造形に目が行ってしまうけれど、スケッチや素描からは、ジャコメッティが「人物の顔」にこだわり続けてきたことがよく伝わった。

彼自身も以下のような言葉を残している。

 

ひとつの顔を見える通りに彫刻し、描き、あるいはデッサンすることが、私には到底不可能だということを知っています。にもかかわらず、これこそ私が試みている唯一のことなのです。

 

いわば生きていると同時に死んでいるものとして、私は人々の顔を眺めたのだ。

 

個人が持つ関心の一番純粋な部分が浮かび上がる瞬間の、祝福を湛えたまなざしこそがアートそのものであると私は思う。

キュビスムシュルレアリスムの手法のみならず原始彫刻にもインスパイアを得て作られた数々の作品は、アニミズム実存主義の両義的な美しさを備えており、人体のイデアと言って良いような純粋さに満ちていた。

一つの作品を生み出すまで何十時間もかけてモデルに同じポーズを要求し続けたというストイックさは、まさに対象という概念に挑み続ける姿勢そのものの表れのようであり、だからこそ彼のこの言葉はただならぬ重みを持ってこちらに迫ってくるのである。

 

「もの」に近づけば近づくほど、「もの」が遠ざかる。

 

人であれ事物であれ、ある対象に向き合うということは、自身との距離について思考することそのものなのだと思う。

眼前する物理的距離が近ければ近いほど、その対象との隔たりに絶望することもあれば、遠くに離れているからこそ近くに思えることもある。

何れにしても、自分に与えられたものは自分のまなざししかないのであるから、時にそれを疑いその限界に抗いながらも、ジャコメッティと同じように対象をあるがままに見出すことに挑み続けるしかないのであるし、その深遠さから学び続ける人間でありたい。

 

つねに生き続けている唯一のもの、それはまなざしだ。

 

ジャコメッティの彫刻の骨格は、「己が己のまなざしを以って向き合わんとしているものは一体何であるのか」という問いによって形成されているように感ぜられた。

己の実存を賭して向き合える対象というのは自ずから限定的になっていかざるを得ないわけであるから、自分が本当は何と向き合いたいのかを疎かにせず、単なる意地や惰性や利己的な欲求のみによって対象を選別せず、己のまなざしを生かし続けていきたいと改めて思うのであった。

 

美術館の後、上野動物園で「真夏の夜の動物園」をやっていたのでそちらにも行ってみた。

動物たちは長年の昼シフト勤務に慣れきっているせいなのかほとんど寝ており元気なのは蝙蝠くらいだったけれど、それも含めて面白かった。

 

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犀は死んでいるように眠るんだなあ、などと思った。

私はこういう生きとし生けるものたちの営みを見つめ続けていきたい。