飛ぶ鳥の献立

珈琲と酒と本とぼんやりした何かでできている

葛藤と結晶

もしかしたら私たちにとって一番難しいのは、「自分を許して受け入れる」ことなのではないかと思うことが最近あった。

 

「こうあるべき」という期待、「もっとできるはず」という圧力、「あの人と比べたら」という劣等感、そういった類のものに、私たちの自己肯定感はいとも簡単に押しつぶされてしまう。

そして不思議なことに、自己肯定感を手放した瞬間、多くの人は自分のことしか見えなくなる。

他人の真意や世界の在り様などに目を向ける余裕がなくなり、自意識の洞窟に閉じこもって、自分を傷つけたり批判する誰かといった、本当にいるのかいないのか実態の知れない外敵に警戒をし続ける。

 

だからこそ思うのだけれど、どんな役割の前にあろうと、まず一人の人間として肯定されていることが役割を果たしていく上での基礎工事のようなものなのではないかと。

私自身も長らくそんなことで煩悶してきて、ようやく「ただ自分として在ればそれで良い。全てはそこからなのだ」と思えるようになってきた。

 

人は、そんなふうに自己肯定感と承認欲求の間で悩み苦しんでいく生き物だ。

自分を疑うことも無論大切ではあるけれど、自分の存在そのものまで疑いそうになった時は、「まず自分として在ることは絶対的で疑いようのない、誰にも不可侵の領域なのだ。それは私自身にさえ侵すことのできないものだ」という視点に立ち戻ることが必要なように思う。

そんなふうに行ったり来たりする葛藤の中で、面白いもの(言葉とか、視点とか、創作物とか、仕事とか)が生まれたりする。

足掻きながら生きていく過程でふと溢れてしまったようなそういうものたちを、その人の尊厳の結晶のように私は思う。

 

f:id:mochidori:20180314173323j:image

2ヶ月前に買ったラナンキュラスの鉢植えが最近、次々と花を咲かせてくれる。

誰かに求められることを知らずともただ花として在る、という事実の美しさに励まされる。