飛ぶ鳥の献立

珈琲と酒と本とぼんやりした何かでできている

葬儀記

100年と5か月生きた祖母の葬儀だった。

 

戦後間もなくの頃に結婚し、東京は蒲田に居を構え、祖父を泉下に見送ってからは20年以上、痴呆が始まって大阪の伯母一家の近隣施設に移るまで、気丈にひとり生きてきた人だった。

詩吟が好きで、立派な三味線を持っていた(痴呆が始まってからもこの三味線は手元に置いておきたがり、施設にも持ち込んだ)。

蒲田にいる時分は、私も高校生のころからよく様子を見がてら遊びに行き、一緒に浅草や横浜に遊びに行ったり祖父の墓参りに行ったりしていた。

とにかく気の強い祖母だったので高校生くらいまではよく口喧嘩もしたが、3人いる孫の中では私が一番のおばあちゃんっ子だった。

 

最期は療養病床で苦しむこともなく、眠るように息を引き取ったという。

 

実は亡くなるしばらく前、しばらくぶりにお見舞いに行っていた。

蒲田にいた頃近所に住んでいて家族ぐるみで仲良くしていたTさんも、奥さんと一緒にわざわざ横浜から来てくれていた。

その日はそんなふうに久しぶりに会う3人が祖母に挨拶し、祖母はもう私たちのことをどこまで覚えてくれているのかわからなかったけれど、持ち前の気丈さで手を振って、子どものような笑顔を見せながら、「今日はいい日だねえ」と何度もつぶやいていた。

その4日後に、この世を去った。

 

葬儀は11時からだった。

会場に向かう間、全く実感が湧いてこない心と、南海線の長閑な眺めがただただ非日常感だけを演出していた。

 

葬儀場には伯母一家とTさんがすでに来ていたほか、Tさんと同じく蒲田時代に家族ぐるみで仲良くしてくれていたAさんもお母さんと一緒に来てくれていた。

「おばあちゃんがみんなをこうして引き合わせてくれたんだねえ」と、伯母は静かに言った。

 

祖母には、伯父、伯母、私の母の3人の子がいたが、伯父は祖母とはかなり以前から断絶しており、私の母とも折り合いが悪かったため、この伯母が祖母の面倒を一切合切見てくれていたのだ。

長男の伯父、末っ子の私の母が溺愛されていたその間で、一番我慢を強いられたのはきっと伯母であったであろうに、そんな愚痴は何ひとつ言わず、献身的に祖母の世話をしていた。

伯父はすでにかかわりのないことと言っており、私の母は仕事で来ることができず、20年以上前、祖父の葬儀の時に全員が集まったのが最後だったんだなぁと思う。

家族とはつくづく非合理で、歪で、生々しいユニットだ。

 

伯母一家のなかで、この数年の間で最も変わってしまったのは伯父である。

痴呆が進み、痛みを時折言葉で訴えかけることが精一杯となってしまい、穏やかで公平で、凪のような人だった伯父とはかなり様子が変わっていた。

それでも、「おじちゃん、おひさしぶりです」と声をかけて名乗ったら、私の名を呼び返してくれた。

 

祖母の遺影とちいさな棺を見ても、まだ実感が湧いてこなかった。

認知機能のどこかの回路がぴったりと閉じられてしまったかのようだった。

 

読経が朗々と響く中、祖母の安息を祈りながらも、ひとが死ぬとは何だろうか、ということを頭の隅で考えずにはいられなかった。

たとえば伯父の心はかつてのようではないとしても、肉体があるかぎり、きっと此岸のどこかにあると信じたがっているし、それは生きていることの証なのだと思いたがっている、きっとここにいる誰もが。

祖母の、4日前の笑顔も、そこに心があったからと思いたがっている。

でも肉体が機能を停止すれば、それは明らかに「あちら側」なのだ。

 

読経が終わり、献花のために棺が開けられる。

いざ対面すると、涙がどうしようもなく流れた。

これが「あちら側」を認識するということなのだ、と花を添えながら思った。

 

市営の火葬場は、今まで見てきたどんな場所よりも寂莫の気配をたたえていた。

「この世の果てみたいなところやな」と従兄がつぶやいたし、私も同じことを思った。

敢えてこのようにしているのか、あるいは自ずからこうなっていくものだろうか、と考えた。

 

納骨までの時間、皆で会食をしている時に、Aさんが「そういえばおばあちゃんの戸籍上の本名ってどっちだったの?」と伯母に尋ねた。

施設や病院ではカタカナで「○○」さんと呼ばれていたのだが、かつては漢字で「○子」さんと呼ばれていたこともあったので、どちらが正しいのかよく分からないのだという。

Aさんだけでなく皆が不明だったので、一斉に伯母を見た。

伯母の返答はまさかの「それが、よくわからんねんなぁ」。

「あれ、最後の砦がいま無くなったよ」とAさんがつぶやく横で、その場の消化不良感を珈琲とともに飲み下しながら、本当の名前が判然としないまま焼かれていく祖母を思った。

 

 

拾骨は別々の素材の箸を一本ずつ使って行うことによって、箸渡しをしなくて良いようになっているとのことであった。

火葬場の職員さんは実に器用に、喉佛と指佛を拾い上げてくれた。

伯母が「どこの骨が脆かったかとかわかるんですか?」と聞くと、「海綿体が白くないところはだいたい弱っているところですね。全くない場合は、骨粗鬆症ということになります」とのことである。

皆で順番に、祖母の骨を神妙にゆっくりと拾う。これが別れの儀式の最後だということへの不思議な名残惜しさをそのあわいから感じた。

職員さんが「大丈夫ですか?まだ入りますよ。遠慮せずどうぞ」と袋詰め放題のようなことを言うので(隙間があるとそれはそれでよくないのだそう)、最後は伯母、従兄、私の3人で骨を納めた。

 

かくして祖母は、伯母の掌に小さく乗った。

葬儀場に戻る車の中、伯母の隣でその壺を見つめていたら、祖母がまだそのあたりにいるような気がして思わず窓の外を見やった。すると、火葬場のすぐ近くにダンス教室らしきガレージが大きな看板を掲げているのが目に飛び込んできた。

鮮やかな色合いの特大フォントで「HEAVEN’S GATE」。

あかんやろ。

それ。

火葬場の近くで「HEAVEN’S GATE」はないやろ。

思わず笑ってしまい、なぜ笑ったのか報告せずにはいられなくなり、伯母も従兄もAさんも皆が笑った。

 

最後に葬儀場で繰り上げ法要までが執り行われる。

納骨と言い、いろいろと簡便化された時代になっている。

 

最後にお坊さんが戒名の意味について説明をしてくれたのだが、「光り輝く」を三回くらい言っていて、だいぶ眩しいご戒名になっていた。

 

本名は謎のままだが、眩しい名前を新たに与えられたことで祖母の旅路の安らかならんことを、HEAVEN’S GATEに向かっていくことを改めて祈った。