飛ぶ鳥の献立

珈琲と酒と本とぼんやりした何かでできている

白河夜船の漂泊に遊ぶ

 

人生初のインフルエンザの病床に2月を見送って気づけば3月。

 

3日3晩熱が下がらず、人間ここまで眠れるのかというくらい眠っていた。

そのように生活のほとんどを眠って過ごしていると、現と夢の境界線がほんとうにあいまいになるのだなあということを実感した。

 

たとえば、現実で気になっていたことに対し夢の中でその答えが示されたり(その正誤のほどは不明だが)、

現実で他愛のない雑談メールをしていた人と夢の中で形而上的な対話をしてみたり、

目が覚めてから、あれ、この記憶はどちらのもので、今自分はどちらの延長世界に存在しているんだっけ…と思うことを何度か経験した。

夢で得られる感覚や記憶は、一見現実と地続きのようでありながら微妙な「ズレ」を伴うことで、それはあたかも並行世界のようであると見た者に思わせることでかろうじてその境界を自ずから明らかにする。

 

そんな境界を行ったり来たりするうちに、そういえば古来より夢とシャーマニズムは親和性が高いものとして知られているし、西郷信綱「古代人と夢」 (平凡社ライブラリー) からもかつて夢は現の均衡を保つチャネルのひとつだと考えられていたというようなことが読み取れるが、両者は我々の意識を経路とするしないに関わらず、複雑な相互作用を通して補完しあっているものではないだろうか、というようなことを改めて考えるに至った。

江戸川乱歩も「現世は夢、夜の夢こそまこと」と語ったが、記憶や感情をもとに新たな寓話性を構築する夢は、多くの創作者にとっては発想の泉そのものであろうとも思う。

 

そんな思考がきっかけとなって久々に、ボルヘス編「夢の本」を本棚の奥から引っ張り出してきた。

 

これは、まさに「夢」にインスパイアされ続けてきたボルヘスが、世界最古の叙事詩ギルガメシュに始まり旧・新約聖書千夜一夜物語、民間伝承に至るまで、古今東西の神話や物語から「夢」に関する記述を抜き出し編纂した「夢と現」の大辞典のような本である。

ボルヘスが影響を受けた「荘子」からの引用ももちろん含まれている。

 

夢の出来事を現における過去の追体験と見るか未来の予兆と見るかはたまた異世界への旅と見るかはそれぞれの文脈に依るとして、この本の面白いのは、読み進める中でいずれかの記述に、自分がいつか見た夢とどこかで繋がっているような感覚を覚えるところである。

そのような集合的無意識に時代や言葉を越えてアクセスできるような気がするのもまた夢の持つ高次な寓話性の力といえるのかもしれない。

 

「夢の本」にはそれを暗示するような「夢とはなにか」についての考察もいろいろと出てくる。 

 

 夢にはふたつの扉がございます。ひとつは角で、もうひとつの扉は象牙でつくられています。光沢のある象牙を通ってやってくる夢は私たちを欺き、私たちに意味のない言葉をもたらします。磨きたてた角を通って出てくる夢は、それを見る人間に真に実現するものを伝えるものでございます。

―「オデュッセイア」第十九巻より

 

夢は演劇の作者にして

宙に組んだその舞台の上にて

暗闇を美しい物影で飾り立てる

―ルイス・デ・ゴンドラ

 

一編一編は数行から数ページ程度の短いものなので、眠りの導入剤として読むのにもちょうど良い。

 

そのようなボルヘスの編纂が隠喩的に示しているかは定かでないが、夢はかくも断片的で終着や結論が見えにくく、放っておけば時間の経過とともに記憶の器から零れ落ちてしまう儚さを内包している。

 

そのような夢だからこそ人はよく、意味ありげな夢の出来事が示すものがなにか知りたさに思い悩んでしまうけれど、敢えて象牙の扉を開けて、その意味など考えずその舞台装置の面白さや演出の妙を、時に役者、時に観客の立場で楽しむという受け止め方をしてみるというのも味わい深いと思う。

 

 

さて、夢の海と現の大河を魚のように回遊していた日々は解熱とともに終わりを告げ、それからは落語とジャズを聴いて過ごしています。5代目小さん師匠はやっぱり至高ですね。生で聴いてみたかったなぁ。願わくば夢に出てきて一席ぶっていただけないものか。