飛ぶ鳥の献立

珈琲と酒と本とぼんやりした何かでできている

5年前の5月、宮古を歩いた話

私は大学時代を、岩手県盛岡市で過ごした。

 

おだやかでのんびりとした街の雰囲気、岩手山北上川の美しさ、車でちょっと行けば温泉街や自然の絶景を見に行けることなどがとても気に入って、就職先さえあればずっと住んでいたかった場所だ。(当時は就職氷河期で、自分の希望の業種で仕事に就くためには、東京に出てくるしかほぼ選択肢がなかった)

 

大学の同じサークル活動を通して親友となった4人のうち3人は盛岡で就職し卒業後は離れ離れとなってしまったが、手紙やFAXをやり取りしたり、毎年1回は盛岡に遊びに行って夜通し語り合ったりしていた。

 

5年前、震源地を知って気が気ではなく、すぐにメールで安否確認をした。

盛岡は道路の断線や停電などがあったものの、とりあえずみんな怪我もなく無事だと知ってひとまず安心はしたものの、親友の一人は陸前高田市、一人は福島県出身だったので、そちらの状況も心配で仕方なかった。

 

自分に何ができるか分からなかったけれど、一刻も早くみんなと会って話したくて、新幹線の復旧を待ち続けた。

待ちながら、募金をしたり物資を送ったり、わずかながらでもできる範囲のことをした。

5月になってようやく盛岡までの新幹線が復旧し、すぐに乗って会いに行った。

 

「がんばろう日本」のポスターがあちこちに貼ってあることと、道路の断線がまだところどころ残っていること、復興支援の人たちがたくさん訪れているという情報以外は、いつもの見慣れた盛岡だった。

親友3人と会って、一晩中、色々なことを話し合った。

それぞれの家族や実家の状況。

岩手の現状。

これから自分達にできることは何か。

親友の旦那さんは地元テレビ局のカメラマンをしており、あの日からほぼ毎日のように、三陸に取材に行っているとのことだった。

現地での支援がまだまだ未整備であることや、避難所生活を強いられている人たちの話を聞いて、ただただ胸が苦しくなった。

 

実は私はこの時、盛岡だけでなく沿岸部をちゃんと見に行くべきではないかと思いつつ、迷っていた。

現地がどうなっているのかこの目でちゃんと確かめて、何ができるのかを考えたい、という想いだけで、果たして行っていいものだろうかと。

 

親友は口をそろえて、

 

「見てきてほしい。そして東京に帰って、今被災地がどうなっているのかを、周りの人に伝えてほしい」

 

と、言った。

 

それで翌日、バスに乗って宮古市まで向かった。

 

宮古市駅周辺は津波が到達しておらず、駅前のビルや住宅はしっかりと残っていて、一見すると震災前と変わらないような印象であった。

とりあえず沿岸部まで行ってみようと、タクシーに乗った。

 

タクシーで10分ほど走ると、全く突然に、景色が変わった。

見渡す限りの瓦礫

そこに住んでいた人の気配や、おだやかに暮らしていたはずの日々の余韻が、瓦礫という残骸を通して伝わってきた。

そしてそれが、おそろしいほどにどこまでも広がっていた。

 

そのあまりの壮絶さに、勝手に体が震え出し、涙がぼろぼろ流れた。

 

「何にもなくなっちゃったでしょ」とタクシーの運転手さんが淡々と呟いた。

 

私は馬鹿みたいに涙を流しながら、「・・・はい」としか言えなかった。

 

浄土ヶ浜のあたりで降ろしてもらった。

海は景勝地としてのたたずまいを変えておらず、とても穏やかで美しかった。

この海が街をこんな姿にしてしまったという事実を受け入れられなかった。

浄土ヶ浜は、何年も前からいつか来てみたいと思っていた場所だったが、

その念願の景色の前で、わけの分からない気持ちになっていた。

いったいどうしてこんな暴力的なことが起こったのだろう、といくら思ってみようが、海はただ海としてそこに在るだけだ。

 

世界にはこんなにも答えのないことがあるのか、と思った。

今この時にこの海を見に来たことが正しいのか正しくないのかもよく分からなかった。

 

しばらく呆然と座り込んでいたが、のろのろと立ち上がり、駅までの道を歩き始めた。

瓦礫の広がる景色の中に、人はほとんどいなかった。

ただ何もできずに歩くのは、とても辛く、一歩歩くごとに心が痛んだ。

目の前の瓦礫一つ動かせない自分の存在が、ただただ申し訳なく、いたたまれなかった。

何もできないくせになぜ来てしまったのだろう、という気持ちしかなかった。

 

駅に近づいていく道中で、まだ家の形を半分ほど留めている住宅が立ち並ぶ一帯にさしかかった。

どの家も、一部残された内壁に、スプレー缶を使った文字で大きく「とりこわしてください」「取りこわしお願いします」と書いてあった。

この家の人たちは今どこにいらっしゃるのだろうか。

また涙が流れたが、私がここで泣いたからってなんにもならないだろうと、自分に対して腹が立った。

 

長い距離を歩き、駅近くまで戻ってくると、また唐突に景色が変わった。

まるで、次元の境目を跨いだかのように。

家屋や店舗が残っていて、地元の方々がそれぞれの生活を過ごしている。

 

津波が達した場所と、達しなかった場所の境目。

何も残らなかった場所と、日常生活が続いている場所の境目。

そのなかで、日常の続きを生きていかなければならない人たち。

 

あれから5年経ったが、あの光景は自分の心の一番深いところにずっと焼き付いている。

 

東京に帰ってからは、被災地支援の情報を引き続き収集し、わずかながらではあるけれど、できるかぎりのことをした。

けれど、宮古で見てきた景色を人に伝えるということは、どうしてもできなかった。

見てきたことがあまりにも重くて、とても言葉で表現できる気がしなかった。

見に行ったという行動自体に、自責の気持ちしかなかった。

そして5年経って、今更のようにこうしてブログに書いている。

 

宮古市に行ったことが果たして良かったのかどうかは、今でもやはり、分からない。

 

けれど、この時代に生きている人間として、自分にできることを考え続け、行動したいと決意し直すときには、いつもあの景色が自分のなかに在る。

 

もし、あの時あの景色を見てきた責務というものを勝手に自分のなかで考えても良いならば、ほんのわずかな力でも、これからのこの国が希望を持てるよう、社会に何かを還元し続けられる自分でありたい。

 

今年の夏、親友の1人が結婚をするので、また盛岡に会いに行く予定だ。

少しでも、現地で何かを還元して、岩手の素敵なところを見てきて、このブログで紹介したいと思う。