飛ぶ鳥の献立

珈琲と酒と本とぼんやりした何かでできている

人の幸せで傷つかない自分でいるために

 

私の周りの友人から、SNSを見るのに疲れた、という話を聞くことがときどきある。

 

SNSに投稿される、周囲のライフステージの成長や人生の充実している様を見てしまうと、自分の人生の「何もなさ」を突き付けられ、自身の努力不足と責められているようで耐えられなくなる、ということが主な理由である。

 

そういう話を聞くたびにいつも私が思うのは、「結婚するべき」「子どもを産むべき」「好きなことを見つけるべき」「やりたいことをやるべき」「立身出世すべき」みたいな「べき」教はまったく歪んだ強迫観念であって、そんなものに縛られて自分を責めるくらいならその観念まるごとぶっ壊したほうが良い、何なら私が粉々にして差し上げたい、ということである。

 

人生の「べき」が何かということは深淵すぎる問いでありそこに答えを見出そうとしているうちにともすれば人生は終わってしまうけれど、ここは誰もが平等に同じものを手に入れられる世界ではないし、自分ひとりの努力だけでその不均衡のすべてを埋められるようにはできていないことは確かである。


だからこそ、誰かが何かを手に入れたり持っていることは、あなたの人生を否定するためにあるわけではない。

 

そして、何かを手に入れることや何かを達成することでしか人は自らの価値を証明できないわけでもない。

 

何かを手に入れられないことや達成できなかったことと引き換えに得られているものは必ずあるし、そちらのほうがよほど美しいもののように感じられることだってある。

 

何を持っているかより何を成したかより、仮にそれらを失ったとき、それらがいつか遠い過去のものとなったとき、それでも自分のなかに残るのは何か、そのときにどういう自分でいられるか、ということのほうがよほど大事であると私は思う。

 

目に見えるわかりやすい現象のみに拠らなくなった時に人は初めて、この不均衡な世界と対等に向き合えるのだと信じているし、人を見るときに、「べき」教だけでその価値を量るのではなく、もっと奥深いところで光っているはずの本質的な価値を見つめられる人間でありたい、と思うのである。