飛ぶ鳥の献立

珈琲と酒と本とぼんやりした何かでできている

住民票おつかいイベントのすべて

この春からやんごとなき事情により、神奈川県から兵庫県に住民票を移すことになった。

  

戸籍だけは先月移動していたのだが、住民票を移動するのを完全に失念していた。

とある申請に伴って会社へ住民票を提出する必要に迫られようやくそのことを思い出すという後手後手っぷり。

後手後手オリンピックが開催されたら間違いなく日本代表としてノミネートし日の丸を背負って国の恥を晒せるだけの自信がある。

そんな揺るぎない自信を構築しつつも転出の証明書を神奈川県某市に申請し、それを持って兵庫県某市の役所に向かったわけである。

 

兵庫県某市の役所はどの駅からも遠くさらにバスなどの交通網もほぼ皆無であり、「納税いただく勤労市民の皆様にとって都合のいい存在には絶対になってたまるものか」という強い意志を感じる立地にあるため、仕方なく前日にフレックス出勤の申請をして向かった。

 

朝から日差しが暴力的なまでに強く、歩いているだけで溶けそうだったし、うっかり保冷剤を入れ忘れたお弁当が傷むのではないかというチープなスリルに身を任せていた。

それもこれも役所が遠く9時5時なんて眠たい営業時間だからだ。

役所もヤクルトレディのように各職場を巡回しながら「各種証明書はお入用ではないですか?  新製品のマイナンバーカードはいかがですか?」と尋ねて回るくらいの気概を見せてほしい。

 

歩き疲れた運動不足の体で窓口に並び、訓練された善良な市民の顔をしながら転入の申請書と転出証明書と身分証明書を窓口に差し出す。

 

ここでひとつ問題が起こった。

 

「転居した日から2週間を過ぎた場合、簡易裁判所にこちらの書面を提出しなければならないのでご記入ください」

 

引っ越しただけでまさかの裁判沙汰である。(ただ提出するだけだけど)

市の広報誌の一面を「鳴り物入りで転入してきた大型ルーキー!!」と騒がせても遜色ないであろう。

 

おとなしく与えられた書面に記入し、提出書類の確認も進み、無事手続き完了…と思ったその時、

 

「…?」

 

窓口の人の眼鏡がキラッと光った。

 

「あの、こちらの記載に関して、向こうの市役所からは何か説明がありましたか?」

と指差されたのは、転出証明書の備考欄のようなところにある「職権削除」の一行。

 

確かに証明書を受け取った時、何これ?と思ったが細かいことは気にしない性格なので、「まあ、いいか」と思っていたものだった。

そもそもこの書面自体、郵送で申請したので、何の説明もあるわけがない。

 

「いえ…。これって何なんでしょうか?」

「あの…本来、こういう書き方をするのは、退去命令による住所不定など何か特殊な事由がある場合でして…」

 

住所不定。

 

住所不定無職という、もう失うものは何もない的なステータスを知らぬうちに50%も手に入れていたのかと思うと胸が熱くなる。

 

窓口の方は、素早く転出元の市役所に電話をかけて確認してくれた。

この時点で役所側の思いを忖度するならば、THE OUTSIDER的なバックグラウンドのある者を市民として受け入れなければならないのかという覚悟であろう。

確認は早々と終わり、

 

「大丈夫でしたので、このまま提出しますね」

 

とあっさり言われたので、

 

「え、結局なんだったんでしょうか?」

 

と尋ねたところ、

 

「こちらでは先ほど申し上げたような場合にこういった注記を使用するのですが、あちらでは特にそのような意味ではなく、転居日の申請に伴って遡って住居の履歴を訂正したというような意味で使われていたようです」

 

との返答だった。

そんな役所によって意味が違うようなことがこの狭い日本で起こっているのか。

まあ、役所間の異文化コミュニケーションにこの私が寄与したと思えばちょっとした社会貢献である(ポジティブシンキング)。

 

さてそもそものミッションは住民票の取得であったので一応そちらの申請書も記入していたのだが、たった今転入届を出したばかりなので、その手続きが終わった後、日を改めてまた来てくれと言われそうだな…と思っていたが、即日発行してくれることが分かった。

 

そんなすぐに住民票が出るの?

住民票、即日発行OK!!」と消費者金融のカード発行審査並みの広告を出してもいいんじゃないの?

 

と感動して発行されるのを待った。

 

 

 

ものすごく待たされた。

そして予定の出社時刻を大幅に過ぎてしまうことが明らかになった。

もし上司に「なんでこんな遅くなったんだ」と怒られたら、「すべて国が悪い」と、ガード下の屋台でワンカップを煽りながら管を巻くおっさんのような返答をしてやろうかと思った。

(なお、もともと会社では天下一武道会時のヤムチャ並みのプレゼンスであるためか、出社しても特に何も聞かれなかった。)

 

そんなこんなでようやく住民票を手に入れて、社畜ロードへの華麗な復帰を目指す。

会社に向かう途上に二級河川が流れている。

国にとっての重要度は低いもののなかなか広く、水も澄んで美しい。橋の上から、魚が群れを成して悠然かつ気持ちよさそうに泳いでいるのが見える。

 

「魚はいいな…何も考えてないっぽいっぷりでは私も負けないのに…この格差はなんだろう」

 

と眺めていると、餌かなにかを巡ってか唐突に魚同士の揉め事が始まり、水面が激しく波打ち始めた。

「魚は魚で大変なんだな」と思い、その逞しく生きる姿に励まされることも特になく、会社への道を急いだ。