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恐れずにうつろえ、という私の信念

己の人格の一番根底にある観念は何かと問われたら、私は思い悩むことなく「無常観」と答えるだろう。

 

 

私の生まれた家庭は私が物心つくころにはすでに平穏を喪い始め、長い時間をかけて両親の離婚という形でその終着点を得たのだが、夫婦や家族間の信頼関係が壊れていくさま、欲望ひとつで人はいとも簡単に醜くもなれ狂うこともできるのだということ、親類関係も含めて血縁というものが枷という意味しか持たなくなる瞬間、優しいと思っていた人が突然見せる別人のような表情、何の悪気もなく与えられる憐憫という刃物、というものを見つめ続けることを余儀なくされた結果、10歳くらいの頃には、ああ、主観のみで確実と断言できるものなどこの世にはひとつもないのだな、と考えるようになった。

この観念がその後の人格形成の基盤となり、依存と執着を何よりも忌避する性格が出来上がるに至った。

 

 

観念が事象を引き寄せるものだとわかってはいるけれど、それから今に至るさまざまな経験を通して、あらゆるものは不確実でありほんの少しの要因であるいは何の手を加えなくてもその形を簡単に変えてしまう、というその無常観はまるで地層のように厚みを増していっそう盤石に私を支えている。 

 

 

ここまで書いていて思い出したのが、おかざき真理の漫画「サプリ」の一節。

主人公は大手広告代理店で働く27歳、ハードワーカーな独身女性。

ある新年度、新卒社員が配属され、主人公がそのOJTを担当することになる。

いわゆる「キラキラ女子」を地で行くようなその後輩は、プライベートの楽しみも持たずひたすら仕事に自分のすべてを捧げるような主人公の働きぶりに対して「あんなんで人生楽しいのかな」というような疑問を抱き、自分はあんなふうになりたくない、という趣旨の陰口を叩く。

そんな後輩の言葉を聞いてしまった主人公は、後輩にこう告げる。

 

「10年後だけ見てればいいよ、今は。今目の前にあるものは10年後には確実にないからさ。とらわれないで」

 

 

この台詞の通り、今目の前にあるものは、いつか喪われていってしまうものである。

 

 

たとえば、つい先日まで元気だった人が、急に帰らぬ人になってしまうこと。

深い相互理解や強い信頼関係を重ねたはずの相手が、いつの間にか遠い存在になっていること。

幸福を感じる心のありようのはかなさ。

自分を強く支配していた気持ちでさえ、いつか空気に溶けるようにどこかにいってしまうということ。 

 

 

あらゆる事象はうつろいという摂理のもとにあるからこそ、望むと望まざるとにかかわらず、その形を永劫にとどめてはおけない。

 

そうであるからこそ、

今とても大事に思う何かがあるとして、もしそれを10年後もとどめておきたいと本当に願うなら、とどめておくための意識と行動が必要であり、 

そのうえで、そのままの形でとどめておくことはできないと承知し、自分も対象も少しずつ変わっていくことを受け入れて、適応していかなくてはならないのだ。

 

 

依存や執着に対する疑念は今なお私の中に生きているけれど、 

うつろう中であってもなおとどめておきたいものが何であるのかを自覚することは、やがて

うつろうことを恐れない、という信念につながっていく。

それは、いつか自分や周りに訪れる「死」を含めて。

 

 

うつろうことは生きることの美しさそのものなのだと思う。 

 

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方丈記の序文は高校生の頃のバイブルでした。

私も大人になったら狭い庵を結んで隠遁を楽しもうと思っていた女子高生は、ねじれたうつろいを経てよく訓練された会社員になっています。

 

 

件の台詞が出てくる巻はこちら。

「共感できる」と「鼻につく」の両論が比較的極端に分かれる作品ですが、おかざき先生は元広告代理店勤務なだけあって、たまに台詞がキャッチコピー的で勉強になります。