飛ぶ鳥の献立

珈琲と酒と本とぼんやりした何かでできている

呪いを与えるか、祝福を与えるか

この夏はいろいろな人の生き方や悩みに触れたり、また個人的にも大きな壁や節目を乗り越えることがあり思い至ったことがたくさんあったのだけど、すぐに文章にするのが躊躇われるうちに秋彼岸花の咲き初めまで至ってしまった。

が、生産することを怠ると人間の精神衛生上よろしくないので、ぼちぼちと書いていこうと思う。

 

さしあたって、ここ数日でよく考えるのが、タイトルのようなことである。

 

本や映画、ドラマなどの物語に関する人様の考察を読むのが好きなのだけれど、そこで最近とみによく見かける表現がある。

「呪いをかける/かけられる」というものだ。

 

たとえばとある登場人物がほかの登場人物に、予言めいた何かを告げる。

あるいは、「こうあるべき」という義や理を説く。

告げられた側がそれによってなにがしかの予定調和に組み込まれていったり、以後の行動や判断に影響を及ぼされることを、読み解く人は「呪い」と解釈するのである。

 

古来からこの国には怨霊信仰が根付いているし、古典の多くに「人の怨念以上に恐ろしいものはない」という観念も出てくるが、おそらくそのようにして培われた、人が文脈や因果を読み解く際の集合的無意識なのだろうなと思う。

 

しかし、物語を読むとき、あるいは生きるとき、「呪い」は必ずしも負の意味だけを持たない。

 

そもそも社会的欲求として人は何かしらの呪縛を求めるものであるし、世に存在するあらゆる信念、信条、価値観、教義、主義、信仰、倫理は呪いの一面である。

 

では、呪いとその対義的概念である「祝い(祝福)」の線引きはどこにあるのであろう。

 

表裏一体と言えばそうであろうし、厳密に語ろうとするとおそらく古今東西あらゆる物語の一篇一篇を詳らかに解釈していかなければならないと思うけれど、かなり観念的かつ粗略に言えば、「影響と関心の差」「絶対と相対の差」なのではないかと私は考えている。

前者は呪いで、後者は祝いだ。

 

自分以外の誰かを、自己肯定や己が利するためのものとして執着あるいは統制しようとするのか。唯一解という枷を与えるのか。

あるいは、自身とは異なる物語を生きるものとして、たとえその文脈が己のそれとどれほど異なっていようと「そうあるべきもの」として祝福し、相手に解を委ねるのか。

 

公的であれ、私的であれ、人と人がかかわるとき、そのどちらを与えるのか、もしくは受けるのか、という選択肢が常に横たわっているように思える。

 

私は、祝いと見せかけた呪いを与える人、呪いを望んで受ける人、望んで受けているはずなのに自身でそのことに気づかず苦悩している人に数多く出会ってきた。

そして私自身もつい最近まで、育ちの環境から受けた呪いに長らく自分を縛りつけてきた。

先にも述べたように、祝いではなく呪いのほうをむしろ己にとっての救済と考える人は意識的にしろ無意識的にしろ多く存在する。

 

以前の記事で、「自分が何を与えたいのか、そして何を受け取りたいのか」について自覚的であり忠実であれ、ということを書いた。

 

 

mochidori.hatenablog.com

 

 

結論を言ってしまえばつまりそういうことに収斂されていくのだけれど、そこに付け加えるとすれば、呪いをかけ続ける人というのはいずれ自身の呪いの重さに耐え切れず薄暗い何かに人生を沈めていくし、呪いを好んで受け続ける人は自分の領土をやがて自ずから狭くしていく、と私は感じている。

何を与えるのも受け取るのも、そもそもそれを呪いか祝いかと見なすも個々の文脈に基づく意思によるものなので、一義的に解釈はしたくないけれど、人から何かを搾取することのみを目的とした呪いをかけ続ける人に対しては、業の深いことであるな、と思って、同情の念に抗えないのである。

 

呪いであろうと祝いであろうと、どんな授受も、自身と周りの尊厳のためにあると思って生きていきたいものだ。

 

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まあ、人は祝いだけでも呪いだけでも生きていけるものではないと思うので、その陰陽のバランス、ということなのでしょうね。