南回帰線上の希望的観測
小春日和というには秋はすでに遠いけれど、そう思えるようなあたたかさの日、
同じく無職を満喫している親友と、大山崎山荘美術館に行ってきた。
まだ山も装いを残していて、紅葉が目に鮮やかであった。
山荘と洋館を美しく調和させた建物も、企画展も、静謐で丁寧な人の手を思わせるものだった。
Robert Coutelasが晩年に没頭したという「カルト」シリーズは、箱庭的な作品を好む私の琴線にふれた。
モネの睡蓮しかり、ロスコの平面しかり、自分の頭の中の宇宙を形にする最適なフォーマットを持つ人の造形は、より深くより純然とその人自身を投影するように感じるのである。
併設のカフェのテラス席から、京都の里山を一望しながら、創設者ゆかりのアサヒビールを飲む。
企画展の作品をモチーフにした限定デザインのフロランタンもかわいらしかった。
冬至が長い西日を描くのを友と眺めながら、いろいろな話をした。
私たちの考える他者受容のありかたとか、幸福の定義とかについて。
話をしながら、他者と共生するうえで大切なふたつのことを思った。
それは、
「自分の頭の中で描いている相手の姿と、実際の相手の姿にはギャップがある」
ということと、
「すべての行動には肯定的な意図がある」
ということである。
このふたつを並び立たせたとき、自分の小さな枠を超えて、相手の尊厳をより深く思えるようになる。
存在とは、それぞれのベストを尽くした結果そのものなのだと。
まだまだ世界は奥深く無限の面を持っている。
きっと来年も楽しい年になる、と一年で一番長い黄昏に希望的観測を浮かばせて友と別れ、
柚子をひとつ買って帰ったのであった。