bestの敵はbetterである
誰にもその人だけの特別な場所というものがあると思うけれど、
私にもそんな場所があって、今日はそこにひさびさに行ってきた。
そこに立って空気を吸うだけで、肩の力が抜け、背筋が伸びるような場所。
山道のゆるい勾配を歩きながら考えた。
どうしても気が進まないことを、やるべきかそうでないかについて。
無論、社会に生きる立場である以上、全てが望んでやることばかりとは限らない。立場が複線的になるほど、必要に迫られてやらねばならないこともそれなりに増えるだろう。
けれど、そういう機会が増えれば増えるほど、本当は選択の自由があるようなことでも、「求められていることに最大限答えることが善である」「誰かの役に立てるのならば、とりあえず引き受けねばならない」という信条が知らず知らず形成されやすくなるのではないかという気がしている。
比較的よく感じるのが、「自分への自信のなさ」がその背景にあるケースである。
自信のなさゆえに、自分の価値や能力を自分自身に信じさせるための実績を積み上げていく必要がある、という行動原理の人を多く見てきた。
目先のbetterを選び続けることで、本来のbestを曇らせてしまうような。
知人は、「人は自信を失った瞬間、体の軸がそこから逃げているような状態になる」と表現した。
これがbestであるという信念をもって、自らの選択に尊厳と責任を与えたうえで臨むものでないかぎり、
どこかで、「他者の目線」「他者の思惑」が入り込み、自分の本体を明け渡してしまうような状態になるのではないかと私も思う。
そういうのは、体の使い方(目線とかしぐさとか、声の出し方、重心の置き方といったようなもの)にも、如実にあらわれてしまうものだ。
そしてそれは、他者に与える己の印象になる。
自分の尊厳に対する本当の実績とは、なにものにも自分を明け渡したりはしないという意思によってしか生まれないと私は考える。
気の進まないことで、選択の余地があるものについては、引き受けなくても良いのだ、と。
そもそも、気の進まないことを無理にやったところで得るものは少なく、どうせ長続きはしない。
そんなことをつらつらと考えて、気乗りしないことに対しては戦略的撤退を取り入れていくことを改めて心に期し、山を下った。