飛ぶ鳥の献立

珈琲と酒と本とぼんやりした何かでできている

孤独の先にある世界

先日、東京に行っている折、とある素敵な知人とお茶をした。 

陽だまりのようにおだやかな視座と春風のようにやわらかな感性を持つ素敵な知人であり、人生やらキャリアやら様々なトピックについて語るのは楽しかった。

 

後日、その知人がSNSで、そのとき話したことをきっかけの一つとして、孤独感についての考察を書いておられた。

孤独感は、人の合理性を鈍らせもするけれど、人に生産性を与えもする、というような趣旨で、その正体は何なのか知りたいということと、できるならばその美しい部分だけを享受したいがそれはずうずうしいのだろうか、という問いかけをされていた。

 

そのなかで、私が「さびしいとか孤独感というのをあまり感じることがないし、一人暮らしでも全然困らない」というような話をしたのを引用いただいたことと、ああこれは私のすごく好きなテーマだなと感じたことで、勢いに任せて以下のようなことをコメントした。

 (大したコメントでもないのに引用するのはあほっぽいのだけど、一応これが今日の思考の出発点なので〈あとリライトするのがめんどくさいので〉)、

 

私のくだらぬ与太話を引用いただき、ありがとうございます。
少しだけ補足しますと私は家庭環境やら何やらによって物心ついた時から孤独のスペシャリスト(厨二的)だったので、孤独を辛いと解釈する機制が働く余地がなかったのかなと思います。むしろそれが自分の友達みたいなものというか。自我形成の過程において、ずいぶん孤独の美しさには助けられました。
人間の本質は孤独であることはあらゆる人間の文化的産物で語られ続けておりますのでそこについて語るとものすごく長くなってしまうので割愛いたしますが、要は、孤独をどのように見るにしても、それらは概して人間の行動や意思決定のdriveのようなものだなと思っております。
孤独について一生何も思わない、感じない人なんておそらくいなくて、それぞれどこに光を当てたりどう自分の孤独を取り扱っているかの違いに過ぎないのでありまして、然ればこそ、寂しさに振り回されていることがネガティブな意味しか持たないなんてことはないんですよね。driveが強ければそれは時には暴走もしますが、そのぶん普通は行けないところまで行けたりそれによって珍しいものが見えたりもするわけです。多くの芸術家や事業家等がそうであるように、Tさんの感性の豊かさも間違いなくその強さによるものではないかと私は思います。
孤独は何よりも人を狂わせもするし、優しくもするし、人を人たらしめる根源だと私は思うのであります。
どの面から光を当てるかはそれぞれの文脈に基づき全くの自由ですが、それによってその人がどう行動し、何を見て、何を学び得るのかがそれぞれの人間性や人生の面白さだと思います。
かくして私は、人は孤独とどう付き合っているのかについては普遍的な法則を見出すのもまあそれはそれで意義深くはあるのですが、サイエンスの及ばぬところ、即ちディテールの面白さ、それこそ個別化の妙にその真髄があると思っております。 

 

まったくもって勢いだけで3分くらいで一気に書いたのでところどころ論旨が荒っぽかったし言葉足らずな部分もあったしなによりけっこう阿呆が透けて見える書き方だったので、改めて、孤独とは何か、ということについて阿呆なりにもう少し丁寧に書いてみたいと思ったのである。

 

さびしさを豊かなものか、みじめなものか、の二項対立で解釈する人もいようが、私はそのような感じ方はまったくナンセンスだと思っていて、孤独はみじめなものだからこそ豊かなのだと信じている。

孤独の色の深さを知っていればいるほど、そのみじめさに打ちのめされた経験のある人ほど、その疑問や苦しみを原動力として、より世界を深く、広く見る目を手に入れられると思うからである。

感じる孤独の強さとは世界に対する解像度の高さのようなものであって、たとえば哲学・数学・美学などというイデアを追究する学問や、何百年も人に感動を与え続ける芸術や文学作品がまさに人間の孤独という思想や精神性の産物であることがその象徴であるように、孤独とは何か、の正体を追い詰めるその連続的な営みこそが、人間という現象をより輝かせると思うのである。

 

もちろんそれは結果から見る孤独の形であり、翻って過程としての孤独を見ると、これほど人を苦しませ狂わせるものはない。

どれだけ物質的に豊かになろうとも、どれほど才能に恵まれようと、どんな資格や社会的地位を手に入れようと、どれだけたくさんの人とつながろうと、人が人である限り、孤独から逃げることはできない。

死がいつか不意に訪れる闇ならば、孤独は常に足元に漂う影だ。

その影が恐ろしいがゆえに人は恋愛やら薬物やらに依存したりもするし、変な方向に暴走したりもする。

 

孤独という影をどれほど自分の土俵に引き入れるかは、その人の生きてきた文脈や価値観や心の強度深度によってそれぞれであるし、そこには正解も不正解もない。

死を身近に感じて初めてそれを立ち入らせる人もいれば、生涯そこから目を背けたままでいられる人もいるだろう。

それはただその人がそう生きたという事実であって、そこに批評の余地はない。

 

だからあくまでもその事実の延長として、その過程としての孤独の苦しさを引き入れた人だけが辿り着ける世界というのがある、と私は思う。

 

孤独は時に御しにくい獣のように自らを侵食するが、時には浸食による暴走を経験した者にしかわかり得ないこと、語り得ないことがある。

それは時に、人とどれだけ分かり合えるかの鍵、人にどれだけ寄り添えるかの杖になる。

孤独によって得られたものが、人を孤独でなくするのだ。

 

たとえばひとつ例を出すならば、最近感銘を受けたもののひとつ、池辺葵の「プリンセス・メゾン」は人の孤独をとてもわかりやすく、かつ上手に描いているなあと思った。

 

yawaspi.com

 

「ひとりで生きていくための家を買う」という夢に向かってひたむきに頑張る主人公を中心に、都心に一人で暮らす女性たちの群像がオムニバス的に入り混じる漫画である。 

 

どう上手いかというと、たとえばある話では、フードコーディネーターとして活躍する女性が登場する。

仕事を楽しみながら日々充実している彼女は、マンションを買って美しくリフォームし、誰からも憧れられるようなお洒落な暮らしをしている。週末は友人たちを呼んでホームパーティをし、対話や食事を楽しみ、傍から見ればちっとも寂しくない一日を過ごす。

友人たちを見送って、楽しい余韻とともに後片付けと寝支度をし、ベッドに横たわった瞬間、しかし彼女は思うのだ。

美しく整えられた部屋の中で、夜の闇よりなお深淵を宿した眼をして。

 

「私、いつ死ねるんだろう」と。

 

 

どうですか。この孤独感の表現。

下手な心情の直接描写なんかよりずっと生々しく心に迫ってきませんか。

これに関して語ると長くなって趣旨から外れるし、私の拙い紹介などでは伝わりにくいのでよければぜひ本作を読んでいただきたいなと思ってしまうのですが、こういう情景から何を得られるか、こういうものについて何を語れるかは、孤独にどれだけ自らの心を許してきたかがその分水嶺だと私は思うのである。

 

であるがゆえに、孤独の反意語は、思考停止、ではないかと私はしばしば思うのである。

 

三島由紀夫かく語りき、

幸福って、何も感じないことなのよ。
幸福って、もっと鈍感なものよ。
…幸福な人は、自分以外のことなんか夢にも考えないで生きてゆくんですよ。

 

 

幸福に生きる人が悪いわけではない。

むしろ幸福こそを人はできるかぎり多く感じるべきだと思う。

 

孤独が思考を捗らせるなんて、そんなもののほうがむしろ生きていく上では必須ではない。

だからあくまでもそういう世界がある、という事実でしか私は語らない。

 

が、どうしても孤独という影が視界に入ってきてしまって苦しいという人がいるならば、それはまた別の新しい幸福をもたらす可能性がある、と私は伝えたくなる。

 

どんな感情も理屈も、人と分かち合うことはできるけれど、孤独は自分だけのものであって、それゆえに自分の視野や思考をなによりも広く深くしてくれるのだと。

それならば、せいぜいみじめさに打ちのめされてやろうじゃないですか、と。

そして笑って、なかなか行けないような場所に行き、普通は見られないような景色を見に行こうではないですか、と。

 

そう、孤独は自分だけのものだけれど、孤独を通して得たものは誰かと共有できるのである。

その共有できるものの美しさや共有することの面白さって、なかなかの生きる醍醐味だと思うのですが、どうでしょう?

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実際、孤独じゃなきゃ人はそんなに寄り添ったりもしないとも思うしな。

 

 

ところでまったく自慢にもならないが孤独と自己肯定感のマネジメントに関して私はわりとキャリアが長いので、人様から相談を受けることもしばしばある。

親しい人がさびしさに押しつぶされそうな時や、自分をどうしても好きになれない時、その人のそばにいたいと、話を聞きたいと思ってしまうのである。

私はカウンセリングのプロでもないし、何ができるというわけでもないのだけれど、その苦しみをよく知っているから、そしてその苦しみはけしてただの負債なんかではないよ、と思うから。

これからも、相手が望むのであればその限りで、人の孤独や自尊感情に寄り添っていきたいと思うのである。