飛ぶ鳥の献立

珈琲と酒と本とぼんやりした何かでできている

生きたいようにしか生きられない人生に祝福を

2〜3日に1回どころか、一週間も空いてしまった。

仕事が楽しいとそれ以外のことをほとんど考えなくなるのは私の悪癖である。

少しは更新しないと惰性に流されてしまうので、今日からちゃんと書こうと思う。(と自分を追い込む)

 

 

前回の記事の続きではないが様々な人の、人生の取捨選択に関して昔から思うことがある。

人は本当に欲しいものはちゃんと手に入れられるようになっているのだなあ、ということである。

 

もちろん、努力と成果が対応しないもの(たとえば固有の人心とか)は限定的にあるとは思うけれど、私がここで述べているのはもうすこし広義の概念だ。

それはたとえば知識や技能や資格などの習得であったり、あるいは結婚や立身などの社会的立場であったり、つまりそういうたぐいのものである。

 

そういうものを巡って、 口ではそれを欲しているといいながら結局、プライドであったり失敗して傷つくことの怖さであったり人と競争するだけの熱量がないなどの理由で行動が伴わないケースは多くある。

そんなとき、人はこんなふうに嘆いたりもする。

「どうして私だけチャンスに恵まれないのだ」「なぜあの人だけが易々と私の望むものを手に入れられて、あんなに恵まれているのだ。不公平だ」と。

 

たしかに運の要素も一部ではあろうが、でもそれは多くの場合違う、と私は思う。

本当にどうしようもなくそれが欲しくて、ほかの何を捨てようとそれさえ手に入れられればいいと言える人、たとえその必死さを誰かに指さされ嘲笑されようとそれを手に入れるために行動せずにはいられない人だけが勝ち取れるものがある。

どこかで自分に相応しいチャンスが与えられるべき、と思っている人は、それがなくては自分の人生はどうしてもだめなのだ、という熱量を持つ人にけっして敵わない。

 

夏目漱石は「吾輩は猫である」の中でこのようなことを書いている。

 

一概に考えるとのぼせは損あって益なき現象であるが、そうばかり速断してならん場合がある。職業によると逆上はよほど大切な者で、逆上せんと何にも出来ない事がある。

(略)

逆上は普通の人間を、普通の人間の程度以上に釣るし上げて、常識のあるものに、非常識を与える者である。

 

-夏目漱石吾輩は猫である

 

作中では逆上を「インスピレーション」とも換言しているがすなわち、直感的に自分自身を感応せしめ煽り立てるほどの飢餓感、無力感、虚無感といったものは、人が何かを成し遂げる上ではどうしても必要なものだ。

(以前書いた「孤独」も逆上を起こす熾火のようなものだ)

コップがすでに満たされているのであれば、新たな水を汲もうという動機はそこにないだろう。

逆にコップが空で、 どうしてもそこに水が必要だとなったとき、どうしたら水を汲んでこられるのか、そのためには何をするべきで或いはするべきでないのか、どのようなリスクを乗り越え或いは代償を払わなくてはならないのか、を考えずにはいられないだろう。

強く欲するほど戦略は具体的になり、戦術は現実的になる。

 

どれだけそれを欲しているかどうか、というテーマで、もうひとつ私の好きな小説から文を引こう。

 

悟空は八戒を近くの原っぱに連出して、変身の術の練習をさせていた。

「やってみろ!」と悟空が言う。「竜になりたいとほんとうに思うんだ。いいか。ほんとうにだぜ。この上なしの、突きつめた気持で、そう思うんだ。ほかの雑念はみんな棄ててだよ。いいか。本気にだぜ。この上なしの・とことんの・本気にだぜ。」

「よし!」と八戒は眼を閉じ、印を結んだ。八戒の姿が消え、五尺ばかりの青大将が現われた。

(略)

「ばか! 青大将にしかなれないのか!」と悟空が叱った。青大将が消えて八戒が現われた。「だめだよ、俺は。まったくどうしてかな?」と八戒は面目なげに鼻を鳴らした。

(略)

悟空。お前の竜になりたいという気持が、まだまだ突きつめていないからだ。だからだめなんだ。

八戒。そんなことはない。これほど一生懸命に、竜になりたい竜になりたいと思いつめているんだぜ。こんなに強く、こんなにひたむきに。

悟空。お前にそれができないということが、つまり、お前の気持の統一がまだ成っていないということになるんだ。

八戒。そりゃひどいよ。それは結果論じゃないか。

悟空。なるほどね。結果からだけ見て原因を批判することは、けっして最上のやり方じゃないさ。しかし、この世では、どうやらそれがいちばん実際的に確かな方法のようだぜ。今のお前の場合なんか、明らかにそうだからな。

 

-中島敦「悟浄歎異―沙門悟浄の手記―」

 

悟空の言うことは至極確かである。

自分の心の裡がどうであるのかなんて断言できるものではない。

その蓋然性を保証してくれるのは、ただ今の己がどうであるかという結果だけである。

そして八戒の例に限らず、自分がどう在るか、より、どう在らなかったか、のほうがよほど雄弁に自分自身を説明してくれることがある。

それもまた、自分の心のままの因果である。

しかしそれは自己否定の説明のためにあるのではない。

取捨選択の「捨」については前回の記事で書いたのでここでは触れないが、どう在らなかったかが心に重圧を与えるほど、それによって手に入れられたものや守れたものの輪郭を強く照らす陰影となるからだ。

「何も選択しないよりも、何かを選択した方がいい」という考えがあるが、何も選択していないなんてことは誰の人生にもないはずだと私は思っている。

 

どうあっても人は望んだようにしか在れず、生きたいようにしか生きられないのであるから、取も捨も全て、正解などなければ間違いもまたないのだと思って生きていくことこそがただ、全ての人に開かれた祝福の道なのである、と思う。

 

春遠からじ。

人生に疲れたら花でも見よう。

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