飛ぶ鳥の献立

珈琲と酒と本とぼんやりした何かでできている

春と道

しばらく前、友人に、「宇多田ヒカルの『道』を聴いていて、うみのさんのことを思い出した」という過分な言葉をいただいて、よく聴いている。(多分これを読んでくれると思うけど。ありがとう。)これを書いている今も。この季節に合う、希望に満ちた歌だなあ。

と書きつつ、私は長年、この春先という季節がとにかく苦手だった。

私はずっと冬の中に閉じこもっていたいのに、世界は勝手に萌え出ずる気候になって何かの始まりを告げ出して、自分だけが何の兆しも持たない、道端の陰で溶け残っている雪のような侘しさだけを抱えているように思っていた。

けれど今年は、過去に例を見ないほど明るい心持ちである。それは色々なことのおかげなのだけれど、昨年の2月からブログを書き始めて、少しずつ自分に書くことを許してきたのもそのひとつだと思っている。下手でも恥ずかしくても面倒でも、始めてみて良かったと思う。

世界は、やればやっただけのものが何かしらの形で得られるシステムにちゃんとなっているのだな、と改めて思うのである。

 

さて、年が明けてから、色々な人の決意や門出の話を聞いてきた。

それと同じくらい、「自分が本当はどうしたいのか自分でもよくわからない」という言葉も聞いてきた。

 

私はたまに友人や知人から「やりたいことがはっきりしていて羨ましい」と言われたりもするが、本当にそれが一分の曇りなくはっきりとしている人なんて、例えば芸術家のように何か強い衝動を「持たされて」しまったような人だけであって、ほとんどの人は、自分がどうしたいかなんて簡単にわかりはしないのだと思う。

 

ではなぜ私のような凡夫がそのように言われるのかについて思うに、それは天啓でも神がかった衝動でもなく、単に覚悟の問題に過ぎない。

仕事もそれ以外でも、一瞬の光のような、ほんの少しだけ見えた楽しさを信じて、そこに自分を賭けると決めたからだ。

長い迷いの時期を経て、腹を括ろうと決めたからだ。

 

その道で私などよりずっと凄い人が山のようにいることは百も承知だ。しかしそれは、私がその道を選ばない理由にはならない。相対評価なんてものはそこには不必要なのである。

 

自分がその道に本当に向いているのかなんて微塵も知らない。それが本当に自分にとってベストな選択肢なのかなんて知ったことではない。何を選ぼうと、そんなことはどうせ死んでもわかりっこないのだ。

 

無論、迷いも大切な過程ではあるけれど、やはり世界は自分で覚悟を決めたぶんだけしか何かを受け取れないようにできているのだと思うから、もし何かを受け取りたいと強く欲したならばそれは、もう迷いは要らない、そろそろ腹を括りたい、という己の内なる叫びそのものなのかもしれない、と私は思う。

 

そして迷いが長く深いほど、腹を括ったら強い礎に変ずるということを、数々の実例を通して私はよく知っている。

 

誰にとっても、選ぶ道が、他の誰かからの評価でも誰かとの比較でもなく、その人だけの物語の中で覚悟できるものであると良いなと思う春の始まりなのである。

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