飛ぶ鳥の献立

珈琲と酒と本とぼんやりした何かでできている

自意識に窓をつける

今日はいつにも増してとりとめもなく書きます。

 

少し前の話になるが、「ダ・ヴィンチ」2月号の特集で、漫画家の東村アキコさんのインタビューにこんなくだりがあった。

 

「結婚すると、いいこともありますからね」

「ラクになるんですよ」

「独身の時って、24時間ずっと自分のことだけ考えている状態なわけですよね。主人公は自分で、ステージから降りられない。前髪を切りすぎた中学生が『うわーっ!もう学校行けない!』って自意識が強すぎて悩む、みたいな状態がずっと続いているわけです。それってすごく大変なことだと思う。でも結婚すると、旦那さんを優先することもあるだろうし、子供が生まれたら完全に子供が優先順位の1位になる。自分のことより人のことを考える時間が増えるんです。それって、実はすごくラクなことなんですよ」

「(『東京タラレバ娘』は)いくつになっても100%自分のことを考えている女の子たち−裏テーマはそれです」

 

私もこれと同じことを以前から考えていて、女性同士の友情関係が一方の結婚や出産を機に疎遠になるケースを非常によく聞くのは、まさにこの「自意識の差」によるところが大きいと思っている。

自意識の大きさが近しいというのは特に共感を前提条件に置く関係においては重要な要因であり、それは生活における優先順位のつけ方や居場所の作りようなど生き方の差異をあらゆる面で浮き彫りにする。その差異に己が人生の空虚を感じる人もいたりする。

どんな関係でも続けるためには努力がいるわけであるが、自意識の異なる大きさを抱えた同士での関係構築はなかなかに難しいものである。

 

いつまでも自分のことを100%考えて生き続けるのは重すぎる、という人もいれば、その重さを抱えたままで生きていける人もいて、その事実はその人生の軽重を図る物差しでもなんでもなく、単なる個体差に過ぎない。

であるからこそ、SNSに上げられる家族写真も、「前髪切りすぎちゃった」的な投稿も、それぞれに背負うものの苦楽があるのであり、どの立場の誰にもその中で受け取れるものを享受する自由がある。

そして、目に見える違いに依らずに受け取る力が強いほど、己の中に感じる空虚を何かで必死に埋めようとすることからは自由になれるような気がしている。

どうせ世界は多様性でできているのだし、そこに代替可能性なんてないのであるから、その差異を面白がるよりその奥深さに触れる術はないのだ。

その先に、自意識の重さに支配されない道があるように私には思える。

 

私には、生き方が違ってもずっと変わらず仲良くしている友がいる。

それはきっと、自意識の大きさが変わっても、その内に残り続けるものがあることを互いに知っているからだと思う。

相手に伝えたいものに正直であるよう、相手から受け取るものに対して鈍感にならないよう、努力をしていたいからだと思う。

それは自分の自意識が澱まぬように風を吹き込んでくれる明窓のような存在なのである。

自分のことばかり考えなくてはならない人生において、窓をつけるというのはなかなかに救いの大きなことである。

 

週末、前の会社の同僚が出展しているフラワーアレンジメント展を観に京都まで行って来た。 

春の花はどれも生命力に満ちて美しかった。

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冒頭のインタビュー記事が載っているダ・ヴィンチはこちら。

東村作品では私は「かくかくしかじか」と「メロポンだし!」が好きです。

この方の描く世界もまた、多様性礼賛なところが良いなと思うのである。