言葉と信頼
コミュニケーションの難しさはきっと人類が誕生した時から今日に至るまで、誰一人悩まない時など刹那たりともこの地上にはなかったと思うくらい普遍のテーマだと思うのだけれど、それに関して昔からずっと思っていることについて今日は記す。
・大事なのは、「何を」言うかより、「誰が」言うかである。
・「誰が」の価値は、「どう」言うかで作られる。
・「どう」の実質は、「誰に対して」伝えたいのかで作られる。
相手は自分と全く同じ人間ではないという前提に立って、そこにどれほどの想像力を持てるか、相手のことを知ろうと努められるか、が全てのコミュニケーションの出発点なのだと私は思っている。
「何を言いたいか」ではなく、「誰に言いたいのか」を考えて、その誰かを理解したいと思っていれば、世の中のコミュニケーションの問題の多くは割と解決するのではないかなあと。
そもそもコミュニケーションとは信頼関係の構築そのものであって、相手に一方的に自分の価値や信頼を認めさせるものではない。
そして信頼は一方通行ではなく相互行為によって成立するものだ。
言ってることは正論なのに、勿体ないなぁ…と思うことがよくあるけれど、その言葉は何のために発されているのか、誰を見て放たれているのか、ということに、人は驚くほど敏感だということに気づけていない当事者は意外と多い。
その人がどれほど賢かろうと才能に溢れていようと、いきなり不特定多数の人に自分の言葉を受け入れてもらえるなんて信頼資産のFXみたいな話はないのであって、目の前にいる人との関係を少しずつ築き上げていくより他にないのだという点では誰もが平等だという気がしている。
なので、このブログも身近な人を思って書いていることが多く、読んでくださる人の中には「こいつは何を書いてるのかよくわからん」と思われる方もいらっしゃると思う。
それに関してはせっかく読んでくださったのに申し訳ないとは思うけれど、でもそういうことで良いのだと考えている。
大事なのは正しいロジックでも美しいレトリックでもなく、誰のために言葉を尽くすかだと、そこだけは忘れてはいけないと、いつも思っている。
コミュニケーションに疲れたら、茶でも飲もう。
猫を見るのもいい。