山と工芸と焼きそばパン
昨年末の帰省中、地元の宴会への参加を拒んだ時に母親から言われた「あんたは幼稚園生の頃から人がたくさんいる場所が苦手だからね」という言葉を時々反芻している。そうだったよな、これは生まれついての性質だからそこに対しての罪悪感は不要だな。先天的に苦手なものには意味があるのだ。謹んで内向型を全うしよう。と思う今日この頃の休日に、ずっと行ってみたかった美術館に一人でふらりと行ってきた。
その美術館は自宅から電車とバスを乗り継いで2時間弱の距離にある。
それほど遠いというわけではないが、開館時期が限られておりなかなかタイミングが合わず何年も機会を逸していたので、今年最初の開館時期に合わせてようやく行くことに決めたのである。
俄かにピクニック気分が高まり、朝淹れたお茶を魔法瓶に入れて出発。
電車の窓から、北に広がる山麓の眠りから覚めつつある姿やどこかのお庭で咲き誇っている紅梅や瓦屋根に伸べられて陽を浴びる布団や、そういう春の兆しをぼんやり眺めつつ向かう。
貨物列車の顔がかわいかった。
最寄駅からバスに乗って、さらにのんびり目的地を目指す。
川のある街は良い街だ。
あちこちで釣り姿が見られた。
バスはどんどん山を登って行く。
大丈夫?と不安になるほど登って行く。
合間にダムも見られて、土木クラスタには嬉しい一幕。
50分ほど乗って、ようやく到着。
滋賀県にある、MIHO MUSEUMである。
宗教法人・神慈秀明会会主のコレクションを展示する私設美術館である。
この美術館の何が素晴らしいかというと、
入り口を抜けて最初に見るこの眺め。
ルーブル美術館のピラミッドを設計したI.M.Pei氏の建築。
興奮してずっと写真を撮っていたら、団体のお客さんがガイドさんの案内で一斉にこちらを見ながらフレームインしてこられ、修学旅行のカメラマン気分を味わった。
加えて素晴らしいのが、受付から美術館に向かうにはこのトンネルを抜けるというアプローチ。
トンネルの手前は、枝垂れ桜の並木道になっている。今年は開花時期と開館日が重なっていないのが残念。
こちらの美術館は全体的に桃源郷をイメージして設計されているとのこと。
受付から美術館までは歩いて10分ほどかかるため、電気自動車に相乗りしての移動もできる。
小さくてかわいい。
美術館の外観も教会に似て美しい。
現在は愛媛県松山市にある瓶泥舎びいどろ・ぎやまん・ガラス美術館のコレクションを中心とした、和ガラスの企画展をやっている。
江戸ガラスの多様な技法を観ながら、美術と工芸の違いについてつらつら考えていた。
前者は死に相対して流れていくものであり後者は生の中にとどまるものであるな、とか、前者は観念の美で後者は現象の美だな、とか。
私は広告業界に長年いるくせにデザインにはあまり興味がなく、どちらかというとファインアートの方が好きなので、クラフトには心の底からわくわくする感じは然程得られず、申し訳ないのだけれど展示はそこそこに、美術館の窓から山の眺めをずっと見ていた。
中庭もなかなか自然な侘び具合で好ましかった。
そしてやはり建物の構造が良い。
ところで私は信仰に関する考察、とりわけ新宗教に関するそれが大好きなのであり、ここに来た理由にも、運営母体に関するなにがしかの知見を得たいという想いが含まれている。
熱海のMOA美術館を先日訪れた際も、展示されていた光琳の屏風図や杉本博司氏の手がけたリニューアル部分より、ミュージアムショップの中にひっそりと販売されていた信徒の方々が身につけるネックレスに一番興奮していたのが私である。一緒に行った友人は付き合ってくれつつも、ネックレスにかじりついて観察する私を冷めた眼差しで見ていた。
しかし多くの宗教法人を母体とする美術館がそうであるように、こちらもあまり宗教色を表に出していない。
やはり一見さんごときがおこがましかったかと思っていたら、館内放送で「これより御釈迦様のお話が始まります。お聞きになる方はホールの方にお集まりください」というアナウンスが流れた。
これは教義に関するお話を伺えるチャンスかと張り切って鼻息も荒く参加したのだが、様々な仏教美術を所蔵しているということもあってか、御釈迦様の前世についての普通に面白いお話であった。
そうこうしているうちにお昼ご飯時である。
ここには教祖の方が提唱された自然農法に基づくメニューを提供するレストランが併設されているが、たいへんな人気で行列ができており、仕方なく鞄の中に仕込んでいた焼きそばパンという自然農法から程遠い食品を休憩所のベンチでもそもそ食べた。おいしかった。
来るのは少し大変だけれど、他の季節にまた訪れたい。
美術館を辞した後は、美術館の静謐な佇まいに似つかわしくなかった煩悩と下心だらけの我が身を少し浄化すべく、とある場所に向かった。
休日明るいうちに入る銭湯は何か悟りを開いたような気持ちにさせてくれる。
春の夕暮れの色を眺めつつ、コンビニビールの激しい誘惑に悟りは全く開けていないことを認識しつつ、帰途についた。