答えと救いは同義ではない
転機は思わぬタイミングで思わぬところからやってくる。
そして迷いが生じた時は、散策するに限る。
というわけで週末、歩くことを目的に出かけた。
ご近所さんのミモザ。こんなにもさもさに咲いてるの初めて見た。かわいい。
歩こう、と決めた時はだいたい京都に行くことにしている。
というわけでやってきた。
桜も盛りをすぎてだいぶ人も減り、歩きやすくなった。
ふと庭が見たくなり、圓徳院に立ち寄る。
国指定の名勝である北庭は、伏見城にあった北政所化粧御殿前庭の池泉回遊式庭園を移築したもので、後年に小堀遠州が少し手を加えたが、今でも安土桃山時代の造形をほぼそのまま残しているとのこと。
遠州は織部の後継者的な位置付けで、絶妙な政治的バランス感覚のもとで重用され、茶の湯の文化を「綺麗さび」と呼ばれる素人にもわかりやすい形で再構築したり、徳川時代に入ってからの庭の設計や改築の多くを手がけたりと時代の寵児みたいな人である。芸能の世界に遊びきった人生に見えるが、その適応力の対価としてきっと迷いや煩悶も様々にあったであろう。
若者カップルが、「ねねさんこの庭見てたんだ〜」「ゴイスー」と言っていて、ほのぼのした。
せっかくなので、高台寺も拝観する。
広い境内を歩きながら正解のない問いについてつらつらと考える。
人の心において失ってから初めて気づくことがあまりにも多いのは、業の善と悪どちらの面なのか、とか。
枯山水を見るといつも、理想郷とは流れに任せた先にあるのか、流れを疑う先にあるのか、を考える。
多分どちらも本質的には同じなのだろうけれど。
400年を超えて、色々な人の色々な想いがここに巡らされてきたのだろう。
山躑躅がいかにも野の趣で咲き誇っていた。
答えは簡単には出ないけれど、考えたという事実は自分の中には確かに残った。
それは自分に対しての救いである。
単に答えを見つけることだけが救いではない、と私は思う。
けれど、なんにせよ、次の桜が巡ってくるまでには色々なことが一本の道に結ばれているのだろう。
それもまた救いである。
良い散策だった。
あひるちゃん。
そこはお風呂じゃない。