飛ぶ鳥の献立

珈琲と酒と本とぼんやりした何かでできている

現実と現し方

しばらく更新していなかった理由は割とはっきりしておりまして、先週からうっかり始めてしまったこのゲームのせいです。

 刀剣乱舞もものの数日で飽きた人間としてはもうこの手のキャラゲーはやることもないであろうと思っていたのに、アプリ版リリースに伴い、つい。 

 

bungo.dmmgames.com

 

「陳腐なレトリックだな」とか横光利一に言われて萌え死にそうになってる。文学の神様にそんなこと言われたら五体投地して詫びたのち滝に打たれに行く。

そして萩原朔太郎のほっておけない感が再び私の中で萌え滾っている。再び、というのは、朔太郎の娘・葉子の「蕁麻の家」を読んで以来であるからだ。

 

 私は高校時代に読んで通学電車の中で泣いていた。昔から駄目な男に弱い。

この手のにありがちな作業ゲームなのでまた遠くないうちに飽きてしまうと思うけど、もし続いたら一軍は漱石・鴎外・子規・芥川(一等好きな4人)、二軍は幸田露伴志賀直哉中島敦泉鏡花(別に関連性はないけど単に私が好きな作家)で揃えてみたい。

川端康成とか三島由紀夫は多分これから来るだろうけど大岡昇平とか埴谷雄高あたりも実装してくれたらうっかり続けてしまいそう。

 

そんなことはさておき、最近友人と話していたことの一つに、何をどこまで「現実」と捉えるかは人によって本当に全く違うのだなあということがある。

哲学や現象学認知心理学パースペクティブを借りなくとも、人は自分の見たいように世界を認識する、ということは通説となって久しいし、であれば何を今更、という面も多分にあるのであるが、例えば絵画や彫刻などの芸術に始まり、信仰の対象、関わる事象、人との交わり、日常の瑣末な言葉に至るまで、全てがその人自身という世界の投影なのであり、投影は人の数だけ存在するのだ。

(実際に、モチーフは幻想的でありながらリアリズムに貫かれた表現方法を採る芸術家に対して、この人には本当にそういうものが見えていたんじゃなかろうか、と思うことが多くある)

我々が個々もしくは共同幻想の文脈で口にする「現実」とはそれらの域を超えず、そこには遥けき無限の外側が存在するのだと考える。

(前述の芸術家のように、その「外側」に向かって現実を広げていける人というのがおそらく、あらゆる分野において先達者と呼ばれる存在なのであろう)

ここのところ、そのような域を超えた外側の存在や、世界という概念の起源について深く考えることがあり、自分にとっての「現実」がもっと柔軟になっていく感覚とともに、私は別に神秘主義者でもなんでもないが、「この世界には本当はどんなことも起こりうるし、起こっているのだ」という可能性をおぼろげながら理解しつつある。

同時に、この感覚をどのような自分なりの形で世界に還元していくか、ということがますます重要なテーマになりつつある。

(つくづく、人間という生き物は、何かを十分に受け取ったらそれを還元していかざるを得ないようにできているのだなと思う。これを人間の業と見るか人間も循環系の一部であるかと見るかはそれぞれであるが、多分どちらの面も正しいのであろう)

現時点で少しずつ見えてきているものはあるのに、自分の現し方がまだまだ至らないためにうまく還元していくことができず、大変もどかしい。

そして、どう現していくかに関して言えば、それが自分に適しているかどうかよりも自分にとって楽しいかどうかが重要なように感じている。

どんなことでもそうであるが、適不適なんて解釈は実は本質的な問題ではなく、己が己の人生を賭ける上では何よりも自分の心が輝くかどうかこそが他でもない己の尊厳と可能性を信じるために必要なことだと思うのである。

どのような形にして現してゆくのが自分にとって最も楽しいと感じられるのか、をしばらく試行錯誤しつつ、考え続けたいと思う。

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