飛ぶ鳥の献立

珈琲と酒と本とぼんやりした何かでできている

器と泉

また更新が途切れていた理由はゲームではなく(もう飽きた)、先週から読書熱が自分の中で再燃していたからでありました。

本を読みだすと他のことが全てどうでもよくなってしまうのが小さい頃からの悪い癖である。

 

先日の投稿で「器」について書いたけれど、あれからまた少し思うことがあったので書いておく。

本や芸術作品などを通して人々が紡いできた歴史や文化のディテールに触れるにつけ、本来、人間には無限のリソースがあるのだなあということを思わずにはいられなかったりする。

サイエンスにせよアートにせよ何かからインスピレーションを受けることによって人は初めて何かを生み出しうるという連綿たる人類の実績に基づけば、人の器というものは孤立し閉じられたものではなく、常に外的世界や集合的無意識に繋がり開かれたものであり、誰しもが望む限りにおいてそうした無限に広がる泉から必要なリソースを引き出せるようになっているのだ。

そうしたリソース自体を、ないと見なすもあると思うも、それもまたその人の信念であり、認識する現実の広さによるものである。

 

自分は大した器でもないしリソースもないから、と何かを諦めてしまうことの背後には多く、何かを成した他者との比較があったりする。

しかし器とは本来、世の中全体において相対化される以前に自身にとって絶対的なものであり、なおかつ認識する現実によって自在に伸縮しうるフレキシビリティの高いものである。

そして前述の通り、リソースとは完全に閉じられた限定的なものではあり得ない。

そこにおいて、他者との比較や他者からの評価には意味がない。

 

外的世界というリソースとの接点を広げていくためには、当たり前のことだが「粛々と形にし続ける、行動する」以外にないのだと思っている。

私自身も、自分には何もないと考えていた時期よりも、こうして拙いながらも文章にしたり、友人と作品を作るようになってからの方が多くのインスピレーションを得られるようになったし、知識の習得は単なるチュートリアルに過ぎず、形にするようになってからの変化の速度には敵わないということを実感するに至った。

ここまで書いていて、以前、村上龍氏が「カンブリア宮殿」で「書いていればなんとかなる」という趣旨のことをを語っていたのが大変印象的だったのを思い出した。

こちらの記事でも「確信を持って挑戦する人はいない」と言及されている)

リソースとは最初から与えられるものではなく、「門を叩け、さらば開かれん」に基づくものであるなと思う。

 

私も自分の器とそこから繋がっている広大な泉を信じて粛々と形にしていこうと思う。 

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