飛ぶ鳥の献立

珈琲と酒と本とぼんやりした何かでできている

終身夏季休暇

通勤路でついに蝉が鳴き始めた。

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冬生まれで夏がE(超ニガテ)の私にとって毎年この季節はただの引きこもりなのだけれど、今年は少しだけ活動的になろうと思っている。

 

とりあえず今年も夏コミに参戦することが決まったので、原稿を頑張らねばならない。まだ何もやっていない。

それから最近勉強を始めたあることについて、ある程度形にできるようにしたい。

新しい分野を学ぶと、それが意外なところで別の分野と繋がっていることに気づく瞬間がぽろぽろとあって、そういうふうにして自分なりのマッピングが進んでいくのが楽しい。 

 

いい年齢になっても随分呑気な生き方をしていると思うけれど、幼稚園児の頃から「協調性がない」と言われ続け、大人になっても生き方の世間一般基準みたいなものから悉く逸脱しまくっている自分にとって、人生は現を遊ぶ夏休みのようなものだなと思っている。

今でこそそう言い切れるが、過去の私は、「こうあるべき」と提示されている道に全く進むことのできない自分に対して劣等感と罪悪感しかなかった。

なぜ私は周囲の人たちが普通にできていることをできないのだろう。なぜ私はどこにも帰属できないのだろう。

その問いと向き合うためには、社会的な望ましさとは何か、普遍と特殊とは何か、といったようなことについていつまでも粘着質に考え続けるしかなかった。

そして最近になってようやく、どんな在り方であろうと、同じ真理の海の上に等しく浮かぶ船であることに変わりないのだ、と考えるようになった。

 

船にはそれぞれ役割があって、全てはその違いに過ぎない。

であれば、わざわざそこに罪悪感という積み荷を載せる必要はない。

その積み荷を投げ捨てたら、急に自分の船が広々としていることに気づいた。

この船には何も載せていない。だからどこにでも行けるし、行って良い。

そういう種類の船に、自分は縁あって乗せてもらっているのだ。

自分の役割をそんな遊覧船のごときものだとするならば、生きることそのものを「関心と体験」を主題とする夏休みの自由研究のような何か、として楽しむことくらいが自分の身上に合った天分なのだと悟ったのである。

そのテーマにはきっと貴賎などなくて、例えば朝顔の観察のような、あるいは牛乳パックの工作のようなささやかなものでも何でも構わないのだと思う。

 

思えば子ども時代、いつか大人になるという事実はただ恐怖の塊でしかなかった。協調性もなく、精神的にも物質的にもひどく貧しい育ちでなんの価値も持たない自分は社会のどこにも受け入れられず、路傍で朽ち果てるのに違いないと思っていた。

それを思えば、自分の乗る船を与えてもらえたこと、こうして生きて夏の到来を感じられることだけで十分すぎるくらいにありがたいのである。

 

先週、初氷を食べた。

大好きな神社の境内で。  

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今生の限り続く夏休みであっても、その全てが一度きりである。

良い夏にしよう。