春は枝頭に在りて
春は、背負ってる荷を下ろして休む季節。
自分にも他人にも無理をさせない季節。
と、最近思う。
陽光桜。昨日見に行ったら、ちょうど満開だった。
無理をさせない、というテーマで、最近私自身について感じている変化について書く。
昨年、しいたけ占いで「水瓶座は自己犠牲の精神の持ち主」「ミス罪悪感」という言葉を見て、はっと胸を突かれる思いがしたのである。
これを読んで、縁があった人には何があろうと尽くさねばならず、役割が済んだら一刻も早くその場から退場しなくてはならない、という観念は絶対ではないのだと気付かされた。
なんていうか、イメージとしてはハーレーダビッドソンのバイクに乗っている修道女みたいなところがあるんですね。貞潔なのかロックなのかわからない人。言い換えると、自由で奔放なのか、鉄の意思を持った奉仕精神なのかわからないところがひとりの人間のなかにこれだけあるってすごい面白いと僕なんかは思ってしまいます。
この二面性は非常に頷くところが多いのだけれど、特にここ数年は奉仕精神の奴隷になっていたようなところがあった。
そこで一念発起し、「頼まれたら基本的に断れない」という長年にわたって染み付いた習慣のごときものを、今年から完全に放棄することにしたのである。
どうしてもやむを得ない事情があって断る時ですら罪悪感に苛まれているのに本当にできるのだろうか、とも思ったが、結果はどうであれとにかく一度やってみよう、とそう思い立った。
そうしていざ腹を括ってみると、罪悪感どころか、大変気分が軽いのである。
以前までであればそれによって失うものに怯えていた節があるが、それはおそらくもう今の自分には必要のないものなのだろう、とすんなり思える。
それまでの滅私奉公し続けてきたことが間違いであったという解釈もできるかもしれないが、それについては不思議と首肯し難い。
例えばもっと昔に同じことを決意したとしても、結局、長年の習慣を引きずってしまっていたような気がする。
おそらくこれは、自分の人生において一つのカリキュラムを終えた、ということなのだろうなと思う。
学べることを学び切り単位のようなものを取得したからこそ、熟柿が落ちるように手放せたのだろう。
決意してからまだ数ヶ月だけれど、それで薄くなった関係もあれば消え去った習慣も実際にある。
でもそれはきっと、古くなったテキストなのだ。
参照されることがもうなくなったとしても、そこから得られたことは嘘ではないし、全部自分の中にある。
だからこそ清々しく手放すことができた。
それは椿が落ちて桜が蕾むような、一つの兆しなのだろう。
であるからこそ、人は今その時の信念に対して忠実に生きていれば良いのだ、と改めて思うのである。
風の匂いや花の気配から春の訪れをふと感じるように、そうするうちに、新しい章が近づいていることに気づくのだと思う。