飛ぶ鳥の献立

珈琲と酒と本とぼんやりした何かでできている

筋書きを手放す

さまざまな人の心中に触れる日々を経過して、人は無意識に筋書きを自分に付与していることが意外にも多いのかもしれない、と最近思う。

例えば、「本当に欲しいものはいつも手に入れられない」とか、「誰ともうまく関係を築けない」とか、「一番にはなれず、常に二番手である」とか。

 

そういう話を聞くたび、それは自己否定や卑下などではきっとなくて、そのひとが自分に与えざるを得なかった救いなのだと私は思ったりする。 

その物語の中に自己の存在を許し、そこで生きることで救われる人生も確かにあるのだと思う。

 

その物語を支える信念はそのひとを美しく照らす光でもあれば、あるべき道以外を照らさない光でもある。

人の心は常にその両面を揺蕩っていて、心が弱っている時は、照らされていない方の道に行く資格が自分にはないような錯覚を生んだりもする。

 

私自身も長い間、誰かが歩む道のいくつかは、自分には決して渡れない川の対岸にあるもののように思えていた。

けれどある時、信念は自分を守護するものであるが、 自分を支配する主人ではなく、他ならぬ自分の意思に従うものである、ということに気づいた。

そう思えた瞬間に、自分のこれまでの筋書きが描かれたぼろぼろの台本は、すでにその役目を終えているのだと知った。

 

筋書きを手放すということは覚悟のいる作業だが、それそのものは別に輝かしいことではない。

物語を再構築することは多大な労力を要するし、そこには常に不確かさという苦しみや、捨てたはずの筋書きの強い引力を伴う。

それでも、知ってしまったからにはそうせざるを得ないということが、常に自分を励まし続けているように思う。

 

自分がその筋書きを生きる時、何を感じるか。

誰かの生きる筋書きを見る時、何を思うか。

そこに蓋をしないことが大事なのだと思う。

もし誰かの持つ筋書きを自分は手に入れる資格がない、と思ってしまうとしたら、それはなぜなのか。

「それでいい」と思うのか、「そういうふうに思うのは、もういい」と思うのか。

本当に欲しい答えはそこにしかないのだという気がしている。

 

"You play with the cards you’re dealt …whatever that means."

(配られたカードで勝負するっきゃないのさ…それがどういう意味であれ)

 

は真理であるが、カードが配られるのが一回きりなんてことはなくて、実は何回も配り直されている、という可能性を持ってみることは結構大事なことかもしれないなと思う。

 

古いデータを整理していたら、去年まで住んでいた部屋の写真が出てきた。

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時間も距離もさほど離れてはいないけれど、思えばここから遠くに来たな、と思う。

この時の持ち札の中から思い切って捨てたカードも数枚あるし、新たに手に入れたものもある。

役目を終えて手放したカードに感謝と、そして今持っているカードをいつか手放すその時まで使い切る覚悟を。

そんな風に思う彼岸前である。