解釈という深淵を覗き込む
三連休はやるべきことに向き合わんとして奈良の旅館に缶詰になっておりました。
せっかくの奈良なので、合間に散策も楽しんだ。
大好きな志賀直哉旧居の縁側で寛ぐ。
こういう書斎が欲しい。
夏の甘味もちゃっかり摂取する。
桃のケーキ、美味しかった。
春日大社の朝は大変よろしい。
どう撮ってもジャケ写風になる鹿マジック。
作業をしながらぼんやりと考えていたのは、因果関係や相関関係という解釈のありようについてである。
我々はとかく弱い生き物であるからして、因果や相関の環を自ら作ってその中に自らを投げ入れる事で何かを担保したがる性質を持っている。
因果関係と思っていることが実は因と果が逆であったりとか、相関関係と思っていることが実は疑似因果であったりとか、そんな例には枚挙に遑がない。
解釈とは常に己の信条と心情に左右される脆弱なものだ。
無論、信じたいものを信じることと、信じたいものの背景に何があるのかを見極めることと、それはどちらも同じくらいの重要さで我々の眼前にあって、どちらかだけが真であるとは限らない。
しかし前者の力が強い人は後者に疎くなりやすく、逆もまた然りである。
中道足り得ることは斯くも難しい。
こちらが何かを解釈しようとするとき、その何かからもこちらが解釈されているのだ。
解釈によって記述されているのは、他でもない自分自身なのだ。
であるからこそ、解釈は常に相対性という限界を出ないものであると、常に己の中で了承していたい。
少なくとも、己の信じたいものに沿ってのみ因果や相関を収束させることだけは避けたいと、そう思うのである。