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自己肯定感を生み出すのは、マジョリティの力ではない

春から夏にかけての時期は私にとって鬼門である。

私の一番好きな季節は終わりさまざまの自然的社会的変化が心身の節々をじわじわと浸食し何をするにもまったくやる気が起こらなくなり、人に会うことは言うまでもなくオンラインの遣り取りさえ面倒になる。

 

世間では春愁とか五月病とか呼ぶけれどその正体がなんであれ季節が巡るたびこの厄介な状態とどうにかうまく付き合っていかなければならないので、この時期はひたすら外界との接触を最小限にして内省に引き籠ることにしている。

 

さらに今年のゴールデンウィークは好きなことしかしないと決めてその通りに過ごした。

 

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好きなことだけしているの図。 とある道具で散らかしまくっている。

 

そんな時間の終わりごろにふっと降りてきたイメージがあったので、ここに書き留めておく。

それは、

 

人生において自分が何を受け取りたいのかと、何を与えたいのかについて自覚的であり、忠実であるべきだ、

 

ということである。

 

これはすでに何度も自身の内省活動の中に繰り返されてきた考えであるけれど、殊に昨年から今にかけて自分を取り巻く環境のなかで何度かこの考えを基軸に判断するべき局面がいくつかあったことがおそらく言葉となって発露したものであろう、と解釈した。

 

 

世の中は実にたくさんの選択肢や資源に溢れていて、それらにはさまざまな「社会的価値」が付帯されている。

そこには、世の中の大半の人が持っているものを得られていない人は気の毒であるとか、ほとんどの人が欲しがらないものに価値を感じることは何かの代替行為であるとか、その手の「マジョリティの力学」が必ず介在する。

 

その力学に逆らわないことは楽ではあるし承認欲求を満たされやすくはあるけれど、それは本来、自分が自分に与えるべき肯定感とは全く違う場所にあるものである。

 

自分が何を受け取りたいのか、自分が何を与えたいのか。

 

そのことを自分自身で選ぶことができているか、そしてその選択をきちんと引き受け、それを満たせる場所を目指すことができているかどうか。

 

本当の自己肯定感は、そういう行動からしか生まれないと私は改めて思うのである。

 

それは自分が「選びたくて選んでいる」場所であるから、たとえ「与える」という行動に対して何の承認や見返りがなかろうと、それでも自分自身を機嫌よく保つことのできる、自由で豊かで美しい場所のはずなのだ。

 

そして多くの人は、自分にとってのその場所がどのようなところなのかを、ほんとうはすでに知っているのだ。

 

それはほとんどの人が行かない場所かもしれないし、たとえ行き着いたところで、誰も褒めてくれないかもしれない。

そんなところしか行けなかったんだね、と言ってくる人さえいるかもしれない。

 

それでも笑って、まあね、でも私はここが好き、と言える場所を持つ人を私は尊敬したいし、自分自身もそうでありたい。

 

 

ふと自分に降りてきたそんな一連のイメージは、この鬼門の時節から生った果実であったなと思う。

そう思えばあらゆる吉凶得手不得手にもそれぞれの付き合い方があるのだな。

 

これから来る夏もまた苦手な季節だけれど、やはり好きなことだけをして過ごそうと決めている。

 

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苦手な季節でも、この時期にしか見られない自然の色は好き。