飛ぶ鳥の献立

珈琲と酒と本とぼんやりした何かでできている

私の帰る場所

寒波到来ですね。

冬が一番好きな季節の私ではあるが、さすがに外に出るのが辛く、そういえば、と思い出したのが、年末年始に帰省した際、 母から

「これしばらく前に買ったんだけど全然着てなくて、あんた着ない?」

と譲られた黒のダウンコートの存在である。

今までダウンコートと言うのをほとんど着たことがなかったのだが、今こそその暖かさを実感する時と思って着てみたのである。

鏡に映った自分の姿を見て真っ先に思ったことは、

 

「……ポリ袋??」

 

どこからどう見ても黒いポリ袋を着た人にしか見えず、思わずそっとクローゼットに戻したのであった。

まあ、せっかく譲られたので、どこかで着ようと思う。

 

 

さて、ここ数日のことであるが、眠くて眠くて仕方ない。

しかたなく、週末はよしもとばなな著「白河夜船」の主人公のようにひたすら眠っていた。

私の場合、異常な眠気は概ね、なにかしらのストレスを抱えていることの反動である。

対処法としてストレス要因自体をマネジメントすることはもちろん重要なのだけれど、そもそもマネジメントするだけのエネルギーが自分の中になければ、いかに頭でそれが分かっていようとも気力がそれに追い付かない。

 

そんな時、気力回復のためによくしている対処法がある。

それは、「自分の居場所に徹底的に閉じ籠ること」である。

 

自分の居場所とはすなわち、

 

【あなたの居場所】というのは、チンケな同類がうじゃうじゃ群れてるところじゃなくて【あなたが一人っきりでいても淋しくない場所】っていうことです。

 

-「すべてはモテるためである 」(二村ヒトシ、文庫ぎんが堂) 

 

という定義に私は倣っている。

 

さらに言うならば、人それぞれ居場所の形態は異なろうが、私の場合、物理的な場所というよりは

 

「時間を忘れるほど打ち込めるものに集中する時間」

 

と解釈している。

 

無になれるほど熱中できるものを何かひとつでも見つけられればそれだけで人生は上々だ*1

と私は思っているのだが、それは、それさえ見つかればたとえ何があっても、「自分が自分であることを楽しめる」という原点にいつでも立ち帰ることができるようになるからだ。

 

自分はこれさえあれば生きていける、というものの中に徹底的に閉じ篭って、その最低限の中に自分を祝福する。

とりわけ内向型の人間にとって、そういう時間はどうしても必要だ。

それはゲームで言うところの回復の泉のような場所であって、再び外に出て社会と関わっていく力を養うために大切な時間である。

  

そんなわけで、昨日から睡眠の合間にそんな時間をちょくちょく取り入れており、少しずつ回復しつつある。

気落ちしそうな出来事も年始からいくつかあったのだけれど、どうにかこうにか自分を機嫌よく保つことができている。

 

昨年から大河ドラマ平清盛」を今さらのように観初めているのだけれど、

 

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。

 

-「梁塵秘抄

 

これはやはり良い一節だなとしみじみ思うのである。

 

無論、遊びや戯れのなかだけに生きられるわけではないが、そういう時間はいつでも帰れる自分の居場所として、おそらく誰の心の中にもあるのではないかと私は思っている。

 

たとえ辛いことや嫌なことがあっても、何を失うことがあっても、これさえあれば自分は大丈夫、ということを、大事なものは全部ここにある、と言えるものを、誰もが持っているのではないだろうか、と。

 

 

ちなみに、夢中になれるものを見つける、というテーマで私が参考にしたのがこの本である。

他の誰と比べるでもなく、誰に認めてもらうでもなく、自分の中にはちゃんと与えられた天分がある、ということに気づかせてくれる名著。

*1:やっぱり名曲。

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