飛ぶ鳥の献立

珈琲と酒と本とぼんやりした何かでできている

執着選択の自由

今日は短く行こう。

 

 

①生きてる

②寝られる、休める時間がある

③ご飯が食べられる

④安心して帰れる場所がある

 

とりあえずここまでで、人としては十分恵まれている。

さらに、

 

⑤心身を損なわない程度での仕事がある

⑥何かひとつでも、楽しいとか面白いとか思えるもの、なにか感動できるものがある

 

ここまであれば、もっと恵まれてる。

 

これ以上の何かを渇望して、それが叶わないことで自己否定に陥ったり、他者との比較で苦しむ人を時々見かける。

 

全てはその人が決めることだとは思うけれど、

そんな時、その執着は取捨選択の余地があるのではないかなあ、と私は傍観者として思う。

 

その執着は本当に自分を自分の望む方向に導くのか、という基準で、「それを追い求めてもいいし、そうしなくてもいい」というスタンスで、もう一度考え直してみる余地はあるのではないかなあ、と。

 

そんなお節介なこと、実際には相談でも受けない限り言わないけれど。

 

人は恵まれているぶんだけどうしたって鈍感になるし、恵まれなかったぶんだけどうしようもなく傷つきやすくなる。

そのことに対して多くの人が無自覚であるということを、春があれば冬があるようにただ自然のものと受け入れて、例えどちらの側に自分が立っていたとしても、柔らかく、謙虚に、相手側の気持ちを想像できる人間でありたいと思うのだ。

 

なお、私はほとんど人や物事に執着しないので、時々友人にびっくりされる。(たまに引かれる)

対人関係で自分からアプローチすることがほとんどと言って良いほどなく、関係を作ったり継続するのを諦めるのも早く、「それ大事なものじゃないの?」と言われるようなものでも不要と判断すれば躊躇わず捨ててしまう(人様からいただいたものを除いて)。

恬淡も過ぎれば人を鈍らせ停滞させるし或いは自尊感情を損なうので、もう少し自分からちゃんと何かを欲してみたい。