惑わずして移ろいゆく
すでに桜は緑に移りつつある。
今年は花散らしの雨が例年よりも早くて本当に一瞬だったけれど、親友とも、一人でも、たくさんの桜を見ることができた。
造幣局の桜の通り抜けはまだ開催されているので最後にそれを観て、春をきちんと見送ろうと思う。
暦としてはまだ穀雨を残してはいるけれど、花が散る時、春の象徴としての何かが確実に過ぎ去っていくように感じている。
人間は自然の一部に過ぎないのだと私はだいぶ以前から思っていて、晴耕雨読の生活などはその体系において誠実な生き方だと思うのだけれど、人と人の間に生きているとどうしてもそうはいかないことばかりである。
然も有らばこそ、自分の中に自然の移ろいの中での在り方を持っておくことは人が人として自然であるために大切なことだと思うのである。
東洋医学の養生法に「春生夏長秋収冬蔵」という言葉がある。
春は冷え切っていた体が外気の変化と共に温まり、活動的になりやすい時期であるが、寒の戻りもあったりと不安定な時期でもある。急激に動き出すとのぼせの原因になるため、ゆっくりと体を冬の眠りから起こしていくようにおおらかに振る舞い、心を凪に、己の中の萌え出ずる何かに丁寧に水を与えるような穏やかさが養生の上では大切なことのようである。
冬から春は、全ての季節の移ろいの中でももっとも多くの揺らぎを内包していると私は感じている。気圧が激しく入り混じり時にぶつかり合うため人の感情も乱れやすくなり、普段は意識していない様々のことが不安に感じられたりもする。
きっとそれは「春生」の言葉に象徴されるように、生まれ出る時の怖れを追体験しているようなものなのだろう。
怖れのある場所には必ず、自己信頼を育てる何かがあるはずだから、ただ慄くのでも身を縮こめるのでもなく、その怖れを信じて、けれど力まず、おおらかに穏やかに移ろっていく。
それが自分にとっての春らしい在り方と思う今なのである。
そして夏はゆっくり育ててきた気力を伸びやかに解放し、秋はそうして広がったものを整え、冬は整えたものとじっくり向き合いながらまた次の春生への養分へと導く。
そんなふうに在ることで、気候や周囲の揺らぎに対して受け身になり過ぎない自律を養うことができるように思う。
来年の桜は誰と観ることができるかなあ。
今からそれを楽しみに、自然のままに生きていこうと思います。