読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

飛ぶ鳥の献立

珈琲と酒と本とぼんやりした何かでできている

表現と循環とカツサンド

週末、東京に上った。

新幹線の中で、春雨の中や花曇の下の桜、霞たなびく山、黄昏に灯る街灯を眺めていた。この季節をただ美しいと感じていられることの幸福のほどを味わっていた。そんな感傷に、「これ辛子入ってませんか?(苦手)」と売り子さんに確認して買ったはずのカツサンドに思いっきり入っている辛子がアクセントを添えてくれた。

  

土曜日。

雨上がりの桜を観ながらこんなことを考えた。

「すべて求むる者は得、尋ぬる者は見出し、門を叩く者は開かるるなり」は真実である。己が欲したものの成果は常に眼前に横たわっているし、誰もが己の中に必要な答えを持っている。

だから本来的に人は何ものにもおびやかされたりはしないし、ましてや毀損されることなどないのだと。

故に「求むるところは何であるのか」以外は至って些事であり、花のように過ぎ去っていくものである。

 

日曜日。

親友と珈琲を飲みながらこんなことを話した。

アートであれビジネスであれ、何かを生み出したい、と人が欲した時、それを受け取りたい、と思ってくれる人がおそらく高い確率で同時に存在している。

だから、何かを生み出したいと思った時のその直感を信じて良いのだと。

何かと言うと、次の夏コミに向けて作る本の話をしていたのである。

「何を書くべきか?」という視点で話そうとすると煮詰まってしまったのだが、「そもそもその題材のどんなところにわくわくするんだっけ?」という原点に立ち返った瞬間、アイデアがすんなり出てきてまとまった。

その時、「漫勉」で浦沢直樹氏がこんなことを語っていたのを思い出した。

 

絵ってフェティシズムの表明じゃないかと思うんですよ。「自分はここにグッときているんだ」とバーンって...。とても恥ずかしい作業。でもそれが強烈に表現されているものは、やっぱり人の心を打つんですよね。

 

これは絵に限らず、どんな表現でもきっとそうなのだと思う。

自分の心が最も震えるもの、作っていて楽しいものを描く、ということ以上に、見る側の心に訴えかけるものはないのだと信じている。

 

月曜日。

深夜まで共に飲んでいた友人からこんなことを言われた。

「お前ほどたくさんの人からこんなにも愛されてる人間もなかなかいないのに、お前自身は全然それに気づいていないよな」

意外な言葉に驚いたけれど、それは泥酔と眠気の混濁にあってなお純粋に自分の心を射抜いた。

以前にも別の友人から、「うみのさんの『人から気にされる力』はすごいよね」と言われたことがあったのを思い出した。

自分では長年、誰からも興味を持たれる存在ではない、と思っていたけれど、人からいただく言葉はなるべくその思いのままに受け取って大切にしたい、と考えるようになった今日この頃であるから、 それを一つの事実とありがたく受け入れて、その上で自分がお返しできるものを考えよう、と思った。

人の世は交換のエネルギーで成り立っている、と私は常々思っている。

 世界から何かを受け取り、それを己の中に巡らせ、やがて何かを世界に返していく、そのエネルギーの連関で成り立っているのだと。

そうだとするならば、その循環の働きを全うすることが我々の役割なのではないかと思うのである。

例えば、何かを受け取ったならば、感謝であったり自分の考えであったり、「受け取ったよ」というサインをきちんと返すこと。

人に何かを与えることを面倒がらない、惜しまないこと。

受け取ることだけ、或いは与えることだけを考えないこと。

そんなふうにして有形無形のものを循環させていくことが、自分自身や、周りの人々を豊かにしていくことなんだろうと思う。

 

短い東京滞在の間ではあったが、貴重な学びを多く得た。

帰りの新幹線では、カツサンドは買わなかった。これもまた貴重な学びである。