飛ぶ鳥の献立

珈琲と酒と本とぼんやりした何かでできている

楽に至る道

 「文學界」 3月号の、羽田啓介さんと村田沙耶香さんの芥川賞作家対談は、なかなか面白い示唆に満ちた内容であった。

 

文藝春秋|雑誌|文學界_1703

 

印象深かったひとつにこのようなくだりがある。

 

(村田)(「コンビニ人間」は)自分にしては早く書いた。

(羽田)でしょ。たぶん早く書いたときの勢いって大事なんだろうなってすごく思う。

(村田)確かにすごい作品がサーッと仕上がったって聞いて驚くことはよくあるなあ。あと、肩の力抜いて書いた作品とかがすごくいい出来だったりすることも多い気がする。 

 

これに似たような話はいろいろなところでよく聞いてきたので、改めて考えるところがあった。

高い成果や良いアウトプットを生み出そうと力んでいる状態よりも、そういう野心無く、勢いに任せたり虚心坦懐で取り組んだものが人の心を動かすようなことが多くある、ということは、分野を問わずに共通した事実であるように思う。

私自身も、仕事で瞬間最大風速的に閃いた企画や、思いつくままに書いた文章を殊の外褒めていただく、ということが何度かあった。

以前とあるところで書いていた資格系のブログでも、人からお褒めの言葉をいただく記事ほど、流れるような勢いで無心に書いたものだったりした。

 

おそらくは、肩に力が入っている状態や、アウトプットや評価に対する理想と実態とのギャップに悩んでいる段階は、通過儀礼のようなものに過ぎない、ということなんだと思う。

肩の力が本当に抜けきった状態になるためには、思いっきり力を入れるプロセスが必要なのだ。

(肩の力が抜けた状態とは、人の評価に自分の価値を委ねるのではなく、何かを自分の思い通りにしようとするのではなく、その人の本来の才覚が素直に発揮される状態であると考える。)

 

それは単に高いパフォーマンスを生み出す取り組み方という話だけではなく、人が生きる上でぶつかるさまざまな壁とどう向き合うか、ということにも敷衍できる考えのように私は思っている。

簡単に答えの見つからない問題に対して、潔く割り切ったり誰かが当意即妙に与えてくれる答えにすがったりするのではなく、自身の中で悩んで悩んで、唯一解なんてわからないままだけれどももうこれ以上悩んでも仕方ない、というところまで悩みを熟成させきった先にしか見えないものがあるように思う。

だから答えが見つからないものに対して悩み続けることは決して無駄でも間違いではない。

むしろ現実に変に適応してしまうことの方が、よほど危険だと私は考えている。

現実を受け入れる姿勢というのも無論、時には有効な処方箋となるが、現実への適応スキルが高いが故に、その具象化された現実レベルに自分の可能性を留めてしまう場合も多くある。

それはとても実際的であるが、時に思考停止を導き、予定調和の中にしか自分を投じられないことにも繋がりかねない。

「生きづらさは人に特別な何かを与える」と以前の記事で書いたが、まさに、目の前の現実にうまく適応しきれない生きづらさこそが、現実よりも一段深い、あるいは高い層で世界を理解する力を与えてくれる源流となりうるのだと思う。

(後世に名を残した芸術家や作家の多くは、何かしらの社会不適合な一面を持っていたりする)

 

さらに、誰かが与えてくれる答えにすがることの危険さは、この記事がよく教えてくれていると思う。

 

news.yahoo.co.jp

 

外的要因の中に答えを期待することは、現実に適応しすぎることと同種の思考停止を招くと私は思っている。

明確な答えのない苦しみの中にあってもなお自分の目で世界を見つめ続け、自分の心で進む方向を探り続ける(すなわち、肩に力を入れ続けること)以外に、本当に肩の力が抜けた状態に至る道はないのだと思う。

 それは登山のように辛く苦しい道のりではあるのだが、まさに登山のように、その道程で出会う人と交わす言葉や見える景色の美しさに、そこでしか得られない深い感動や救いがあるということもまた事実だと私は思う。