飛ぶ鳥の献立

珈琲と酒と本とぼんやりした何かでできている

とりあえず生きる、という選択肢を選ぶ尊さ

このまとめを見て思ったこと。

 

togetter.com

 

 

私は学生時代、自死の心理についても少しばかり研究していたのだが、自死の多くは計画的ではなく衝動的なものであり、人を自死行動に向かわせる直接的な引き金は本当に些細なことで、その動機は階段を少しずつ登るようにして積み上げられていくものだということを知った。

 

ひとつ前の記事で、「死ぬこと以外かすり傷」と書いたけれど、実を言うとこれまでの人生で自死を真剣に考えたことは何度かある。(それが上記の研究の動機にもなっていた。だいぶ分かりやすくこじらせていて恥ずかしい)

家庭環境のあれこれや、取るに足らないこの人生においても墓場まで持っていくような話はいくつかあって(犯罪を犯したというわけではないが)、「ああ、死ねばこんな苦しみから解放されて楽になる」と発作のように思うことも少なくはなかった。

 

結果的に今こうして文章を書いているのだからその発作はゆくゆく鎮まったのであるが、その鎮静剤のひとつは「死に支度」について考えることであった。

唐突に死んでは周囲に迷惑がかかるので、せめてその迷惑を最小限にするためにやるべきことをリストアップするのが「死に支度」だ。

まずは自分の所持品をすべて処分し、マンションも引き払って、会社も辞めて、それから積み残していたあれとこれとそれもどうにかして…と考え始めると、TO DOが多すぎるという事実に気付く。

それからもしかしたら悲しんでくれたり戸惑ってくれる人がいるかもしれないから、できる限り言葉を尽くして「これは極めて自分勝手な安らぎの追求のために死ぬのであるから、悲しむには及ばない」という趣旨の遺書も残しておかなければならない。

そのうちに、「死に支度を完璧に遂行する気力も覚悟もない。それならば生きたほうが楽だな」と考え、「とりあえず生きよう」という結論に至る。

 

無論、衝動的に自死に向かってしまうような出来事のなかっただけ私は恵まれていると思うし、自分の考えひとつだけではどうにもならないことや、時には専門家の手を借りなくてはならないこともある。

 

が、幸運にも私の人生の一定部分はそういう結論によって永らえることができた。

 

一方で、そのように生き永らえてもなお自身の中に深く根を張る自己否定感や、さしたる価値を世の中に提供できているわけではないという事実の前に、それが本当に良いことなのか悪いことなのか、ずっと判然としないまま生きてきた。

 

けれど、ここ数年で様々な内省を経たり専門家の手助けを得るうちに、

 

「何の価値を提供できなくとも、生きていることただそれだけで良い。ただそこに在るだけで尊い」

 

ということをようやく素直に考えられるようになり、「何があろうと図太く生き抜く」ことを本懐としようと思うに至った。

 

これから先はもう決して自死を考えることがない、とは言い切れない。

けれどこの本懐が消えない限りは、生きていることただそれだけで良いのだと、私は私に、そしてかつての私と同じような苦しみを抱える人に伝えていきたい。

 

おまけ。

心療内科の先生から教えていただいたことや、私自身の経験から、生きる気力のない時に効果的なこと。

 

・3食食べる

食欲がなくても、味がわからなくても、とにかく胃に何かを入れる。

 
・湯船に浸かる
無心で浸かる。湯が揺らめくのをぼんやり見ているだけで良い。
 
・白湯を飲む

湯船に浸かるのもそうだが、体を冷やさないことが大事。
 

・睡眠をとる

眠れなくても、とりあえず部屋を暗くして横になるだけで良い。

 

・食事をつくる

おにぎり一個握るだけでも良い。

自分で握ったおにぎりを食べるだけで心の穴は少し塞がる。

 

 

とりあえず今日。とりあえず明日。

生きて尊くありましょう。