真田丸は「全ての凡庸な人の味方」の物語であった
「真田丸」の最終回にあまりに胸がいっぱいになったので、思わず書き殴った文章。
**
よい物語には、作り手の思想があり、哲学がある。
三谷幸喜氏はさまざまな著作やインタビューの中で、このようなことを語っている。
「舞台『アマデウス』のなかで、サリエリが観客に向かって、『全ての凡庸なる人々よ、私は貴方の守り神だ』と語りかけるシーンを見て、『これは僕のことだ!』と思った。僕は僕で、守り神になりたいと思った。史実を書く時のテーマはすべて、それなんです」
「真田丸」の演出には、一貫して以下のふたつがある。
・歴史の敗者たちに寄り添う。なぜ負けたのかを丁寧に描く。
・死に様を美化しない。生きる姿、望みを捨てない姿を徹底して描く。
このふたつが中心にあったからこそ、武田、北条、石田三成と大谷吉継、豊臣、そして真田が、見ている誰の心にも、その奥深くで響き合うなにかがそれぞれにある、祝福の物語として語られた。
そして、信繁が生きる道を形作ったと言える二人の武将、家康と景勝を描くうえでは、「義」というテーマがあった。
「義」が大きな物語の片鱗として見える中で、信繁は常に、戦国という世が、武将という人間達に語らせる祝福と呪いを受け取り続ける存在だった。
誰もが自分の思い描く通りに生きられない中で、誰が正しいのかなんてわからない中で、表舞台の主役ではなく、その仲介人、立会人として存在し続けた。
一旦は隠居したままで終わろうとした信繁が、自分が本当はどうありたいのか、に最後に向き合った時、それを決定づけたのは、そんなふうにして受け取り続けてきたものたちであった。
時が戦国であろうと平成であろうと、「正」の不透明さ、「義」のままならなさは同じだ。
変化し続ける今を生きる小さな人間達に、大きな物語を語る力はない。
だからこそ、自分が何を受け取ってきたのか、そこに何を見たのか、見たいと思うのか、がそれぞれの道を照らし続けるのだ。
最後に家康と対峙する場面、家康は、ここで殺されてもいい、という顔をしていた。
信繁の受け取り続けてきたものが、「義」として初めて信繁の口から語られた瞬間、信繁は確かに家康に勝っていた。
誰もがよく生き切ったし、よく戦い切った。
無念の死も、非業の死も、なかった。
そして、誰もが誰かのサリエリになりたいと思わせる物語だったと思う。
**
演じた役者さんたちの誰もが、戦国を生きた人達の、魂の代理人でした。
ずっと覚えていたいドラマです。ありがとうNHK。
来年の直虎もすごく良さそうなので楽しみ。
特に菜々緒の築山殿!!