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取捨選択の「捨」を意識する

書きたいことは溢れんばかりにあるのだけれど仕事が楽しすぎて毎日己を使い果たした感がありなかなかここに文章を刻めずにいた。多分今後は2日か3日に一度くらいの更新になるような気がしている。と書くと実際にそうなるということはわかってはいるが昨年末からほぼ毎日書いていながら急になんの予告もなく更新ペースが落ちるというのはどうにも自分の中で気持ち悪いのでわかった上でこうして書いてしまうのである。

さて冬という季節はどうにも人を内省的にさせる力がありそれは私がこの季節を愛してやまない理由のひとつでもあるのだがそんなわけで週末も週明けも色々なことを考えた。

それは例えばこんなことである。

人間が社会の中で他者や様々な外的事象と共生していくというおよそ現代において不可避の条件下においてでは個々人がそうしたままならぬことの多い世の中でいかにより良く(あるいはより納得の上で)生きていくかということを考えるとそれはすなわち「何を受け取りたいのか」そして「何を与えていきたいのか」の二つを己自身の意思で定義及び取捨選択する必要があるのではないかという私見を過去に書いている。

 

mochidori.hatenablog.com

 

それは翻って言うならば「何を受け取らないのか」を定義し「何を与えないのか」を受け入れることでもある。

なぜそんなことをわざわざ言い直すかと言えば人間は時に自分が選択したものについては自覚的でありながらその一方で自分が選ばなかったものに対しては無自覚になるという心理的傾向がよく見られるからである。

自身の意思とは無関係のところで差し出されるものは数多くある。例えばそれは望まぬ形で親から与えられる愛情や執着であったりあるいは他者からの厚意や干渉であったり求められる言動や役割であったり。

それらはあくまで外的環境からの一方的な所与であり自身の意思や願望とは全く別のところの産物である。しかし厄介なことに外的要因の期待や要求を受け入れ応えることが人格や能力が優れていることの証という社会共通の信条が根強くありそれが時に何かを受け入れないことを人としてのなんらかの欠落であるかのような強迫観念及び自責の念を生み出すことがままある。

誰かに(あるいは社会に)とっての「良い人」で在ろうとして受け取りたくないものまで全部受け取って苦しい思いをしている人を少なくないケースで私は見てきたし私自身もそのように行動してしまうことが過去にあった。

しかし今は思う。人は自身の意思において「私はそれは受け取りません」と誇りを以って宣言して良いのだと。

差し出すことが個々人の自由意志によって為されるものであればそれを受け取るのも受け取らないのも同等に自由だ。

 

ごく個人的な私の場合の処世をここで引いておく。

私の親は少し愛情表現が屈折しており時折私の尊厳を無視した形でそれが差し出されることがある。

私はその度にこう思う。

「あなたが私に愛情を抱いていることは嬉しく思うがその差し出された形については私は受け取りません」「あなたが愛情を抱いてくれているという事実だけありがたく受け取っておきますね」と。

それは親との関係を直接的に改善するためにするのではなく(間接的にはそうだが)自分の中に在る親の像を歪めないためそして自分自身の誇りを守るために私は心の中でそう取捨選択をする。

そうすることによって私は親の愛情の本質を受け取り親に対して愛情を与えていくことができるのである。

受け取らないと宣言することは己の大切にしたいことを大切にするために必要なことであり誇り高いことなのだと私は信じている。